十
ツツジが終わり、生垣の紫陽花が満開になる頃、雨天が続くようになった。昨日の夜半に降りだした霧雨はその日、日が暮れてからも止まなかった。
翼は人気のない寮の廊下、設置された共有電話の受話器を耳にあてて立っていた。壁の向こうから細く聞こえてくる雨音が、電話口の母の声に混じった。
『薬? 心配しないでいいわよ、ちゃんと次の分のお金、貯めてあるから』
夏休みには帰ってくるんでしょ? その時、もらいに行きましょうね、と母は付け加えた。
「あ、そっか……うん、ならいいんだ」
『薬のこと訊いてくるなんて、どうしたの? …もしかして、体に何か変化が出たの?』
「いや、何もないって。ただ、ほら、結構購入量あるしさ…一気に買うから、大丈夫かなと思って」
とたんに心配そうな口調になる母へ、翼は明るい声で応える。
『翼の薬代はちゃんと計画的に貯えるようにしてるから、心配しなくていいわよ。…そんなことより、大丈夫なの、翼。生徒会までやって…体壊してないの?』
「平気だって。俺だって、男なんだぜ」
喉の奥がぐっと詰まるような気分を味わいながら、翼はわざと明るく言った。電話口の母の声が、少ししわがれて聞こえる。涙を堪えている時の声。
『……翼、どうしてそんな学校に入っちゃったの。…無理しないで、辞めちゃってもいいんだからね?』
一瞬息を止め、母に気づかれないようゆっくりと吐き出しながら、翼は微笑んだ。
「…うん、ありがとう、母さん。……心配しないでよ。俺、何とかやってるから」
電話を切ると、大きなため息が出た。
(言えなかった……薬のこと)
「あれ、翼。電話かけてたの?」
廊下の向こうから現れた央太が、翼を見つけてパタパタと駆け寄ってきた。手にはバスタオルや着替えを持っている。
「風呂行くのか?」
「うんっ。…翼も行かない? 久しぶりにさ」
気遣うように微笑み、央太が首を傾げる。翼は肩をすくめた。
「悪ィ。俺は一人で入るわ」
残念そうに肩を落とした央太は、翼の頬をそっと撫でた。不安そうなかげりが、央太の大きな瞳の中でちらちらと揺れている。
「翼、ちゃんと寝てる? 体の調子、悪いんじゃないの……?」
手も冷えてるし、と言って央太が翼の片手を握る。央太の手は温かくて、指先まで冷えきった翼の手にじんと体温が染み込んだ。
「…寝てるって。心配すんな」
にっこり笑って、空いた片手で央太の頬をくすぐってやる。
「でも…」
央太が悲しそうに眼を伏せた。
「翼、元気出してよ。澄也先輩なんかより、ずっといい人、きっといるから。ぼくだって翼のこと」
翼はくすぐっていた手で、そのまま央太の頬をむにっとつねった。
「ばか、澄也先輩なんて俺はもう気にしてねえって。変に気、まわすなよ」
ぱちん、と央太の頬をぶち、ありがとな、と翼は笑った。
「ほら、さっさと風呂行け! ぐずぐずしてっと栓抜かれちまうぞ!」
央太の背をバンと叩いて、翼は風呂のほうへ追いやった。二時までは抜かれないもぉん、と頬を膨らませながら央太は小走りに風呂場へ向かった。
廊下の角へ央太が消えると、指先に残っていた体温が急に消えていき、顔から笑顔が剥がれ落ちていくのが分かる。
部屋に戻り、脱衣所で服を脱ぐ。肩甲骨の下に力を込めて、翅を広げる。肩越しに振り返り、翼は翅の模様を確かめた。
(…黒まだら…)
瑠璃色の濃かった翅に、黒っぽい斑がそれと分かるほど混じり始めている。尾状突起の上には、橙の点がはっきりと映っていた。
(……体には、まだ何も出てない…?)
平べったい胸を触る。膨らんでいる気配はないし、男の性器もついたままだ。ただ、内部のことは分からない。
翅を仕舞い、狭いユニットバスの中でシャワーを浴びる。頭から湯をかぶっても、冷えた指先はなかなか温まらなかった。
「夏まで、もつかな…」
澄也に切られたあの日。
陶也がやって来て、澄也に、消えろと言われた日。
五月の温かな日だった。甘いサツキの香り、日の光が心地よく、一年で一番気持ちのいい季節。
あの日以来、翼は薬を飲んでいない。カバンの中にも、寮の自室にも、薬がなかった。ほとんど半狂乱になって探したけれど、見つからない。ゴミ捨て場にも行ったし、回収業者にも電話をかけた。
(でも、なかった。……新しく買いかえるしかないけど)
親には言えない。薬は高額なのだ。なくしたと言えばすぐ買ってくれるだろう。でもたたでさえ生活の苦しい両親に、高い薬をもう一度買いなおしたいとは言えなかった。
(それに、ここでなくしたなんて言ったら……ますます帰って来いって言われるだろうしな…)
ため息をつき、翼は浴槽の中にうずくまった。
足の指を手で包む。冷えた指先どうしをこすり合わせる。湯が当たる背以外は冷えていて、寒かった。
元気出してよ…
泣き出しそうな央太の顔が浮かぶ。胸がずき、と痛む。
(ごめんな央太、心配かけて……)
澄也先輩なんて俺はもう気にしてねえって。
「嘘つけ…」
呟きはシャワーの音に掻き消える。たてた膝に顔を埋める。潮のように押し寄せてくる、鼻先をツンと痺れさせる、痛い熱。
眼を閉じるといつも、澄也の顔が浮かぶ。つまらなさそうな無表情、抱く時だけ熱のこもる琥珀の眼。
甘いバリトンは、時折驚くほど優しかった。
体のあちこちが、疼くように覚えている澄也の感触。
もうずっと、眼も顔も合わせていなかった。同じ寮にいるから、時折姿は見かける。でも翼の姿を見つけると、澄也はぷいっと道を逸れてしまう。
避けられているのは分かった。顔も見たくないのだと。
翼を抱くようになってから、ずっと張られていなかった澄也の巣がまた部屋にかかるようになったと聞いた。
寮の廊下、学校の校舎の中。あちこちで、澄也の甘い匂いを引っつけた美形のハイクラス種を見た。その度、谷底へ突き落とされたような気持ちになる自分を、翼は知った。
陶也と澄也はよく一緒にいて、セックスの相手を交換しているという噂も聞いた。それがタランチュラの遊びなのだと。
(俺、もう匂い、しないんだろなー…)
自分の腕をくん、と嗅ぐ。
澄也の匂いは、きっととっくに消えているだろう。
(初めに、嫌いだって言われたし…分かってたのに)
毎日毎日、言い訳のように考えている自分が翼は情けなかった。
(――俺、澄也先輩のこと……)
ぎゅっと膝を抱き寄せて、翼は眼をきつく閉じて、その先を言わないようにした。たとえ、心の中だけでだって。
「翼くん、こんな議事録じゃ使えないよ」
真耶が眉を寄せて、提出されたA4の書類を翼に差し戻した。
「…す、すいません」
戻された書類を受け取り、翼は慌てて頭を下げた。
「元の速記メモを見せて」
翼は自分の机に引き返し、会議録を速記するノートを出してきて真耶に渡した。中身を確かめた真耶の眉間に、深く皺が寄る。
「……議題がいくつかぽっかり抜けてるね」
「すいません…」
自覚はあった。謝るしかなかった。議事録が使えないことは、最初から分かっていた。書記長用の机に座った真耶はノートを置くと、頬杖をついてため息をついた。
今日の会議も終わり、残務もあらかた終えた役員達が、三々五々に散り始めている。
「書記長、お疲れ様です。青木くんもさよなら」
役員達がかけてくる声に、応答しているうちに人はいなくなった。最後の兜が去り際に顔を覗かせ、
「真耶、翼くん、土曜日の緊急定例会よろしくね」
と声をかけてくる。
兜がいなくなると、真耶が椅子をひいてきて座るように促した。
「お茶いれようか」
真耶が、気をきかしてくれているのが分かる。ベルガモットの香りが生徒会室に満ち、飴色の紅茶が運ばれてきた。
「すみません、真耶先輩、俺、会議中ぼうっとしてて……」
「うん。ぼうっとしてるなあと思って見てたよ」
厳しい言葉にぐっと詰まる。ティーカップをぎゅっと両手で包む。真耶は一口紅茶を飲んで、カップを置いた。
「央太も心配してるよ。無理して元気に振舞ってるのが分かるって。…僕や兜もね、皆、翼くんが好きだから」
好きだから。
その言葉に、胸が痺れて泣きたくなる。俯いた翼の髪を、真耶が細い指で優しく梳いた。
「澄也のこと……そんなに好きだったの?」
真耶の顔も見れない。言葉も返せない。
「澄也の家はね、ハイクラス屈指の名家なんだ。一族はタランチュラ同士で婚姻を繰り返しているし、澄也自身の家も大きな病院を経営していて……階級主義の強い家なんだよ」
真耶の指が離れた。今日も雨が降っており、生徒会室の窓を、サアサアと雨滴が流れる。
「二年前、澄也の血縁者の一人が、シジミチョウと結婚してね。一族で揉めに揉めて……幸い、理解者が何人かいて事態はおさまったんだけど、澄也は納得できなかった」
「あの、美登里さんていう人ですか…?」
翼は顔をあげた。真耶がうなずく。
「階級なんかで可能性を分けるのは嫌いだけど……そういう考えの人たちもいることは事実だし、七雲家はそれが強い。もし澄也が君を選んでも君が苦労するから……」
「俺」
翼は苦い気持ちで、真耶の言葉を遮った。
「ハイクラスだからとか、ロウクラスだからとかで、人のこと好きになったり嫌いになったこと…ないです。それが、普通だと思ってた。……命の価値って、一緒じゃねえの?」
「翼くん」
真耶がティーカップを持つ翼の手を、そっと包む。
「誤解しないで聞いてね。…二千年の氷河期と、未開文明の時代に、小さな種と融合した人々のほとんどは廃絶したんだ。…古く厳しい時代を生き抜く丈夫さを、より多く受け継いだ種が、今ハイクラスと呼ばれている。捕食対象で、対抗手段を持たない小型種の多くが、ロウクラスになった。だけどね、」
真耶は翼の眼を覗きこんだ。
「人類の歴史は、小さくて生き残るのが難しかった種を、死なせないように生きやすいようにしようって、その努力で発展したんだ。古い時代、今のハイクラス種はロウクラス種を生かしたくて、頑張ったんだよ」
温かな家。寒暖の厳しい季節を乗り越える知恵。力が強くなくても、普通に生活できる為のテクノロジー。
「ヒメスズメバチは、捕食対象のアシナガバチを攻撃し、彼らの巣を廃絶させる。アシナガバチは対抗手段を一つも持たない。攻撃されれば、ヒメスズメバチにされるがまま死んでゆく。だけどね、ヒメスズメバチはアシナガバチがいないと、生きていけないんだ」
力強く、真耶が断定した。
「命の手綱を握っているのは、アシナガバチのほうだ。アシナガバチは、食べさせてくれるんだ。ハイクラス種の多くは、本能でそれを知っている」
ぱちりと、翼は眼をしばたいた。
「君が寮に入った日にも、言ったよね? 小型のチョウは、捕食者を病みつきにさせるって…シジミチョウのほうが、本当はタランチュラよりずっと強いんだよ」
信じられない話だった。翼は眉を寄せて黙っていた。真耶が机上の規定カバンの中から、クリアホルダーに入った書類を出して、翼に渡した。
「何ですか?」
「クラスで配られたプリント。澄也に渡してくれないかな」
ぎょっとして、翼は顔をあげた。真耶は穏やかに微笑み、翼の頭を撫でた。
「本当は、反対なんだけど。君の強さを信じて、応援することにした。澄也と話しておいで。好きだって翼くんに言われたら、澄也もきっと眼が覚めるから」
「そんな、俺、別に」
あわあわとして、言葉がつながらない。苦笑した真耶が翼の手からティーカップをとって机に置くと、やんわり抱きしめてきた。
真耶からは蜜の匂いがする。伝わる体温が、温かい。
背をさすられ、ぽんぽんと弱く叩かれた。小さな頃、泣いていると母親がよくしてくれた仕草だ。
「勇気を出して。タランチュラはシジミチョウに敵わない。馬鹿な澄也を、救ってあげて」
窓を滑る雨音の中で、真耶の肩口にこもる自分の息と痛む心臓の音が聞こえた。
三階、右端の部屋へ行くのは一ヶ月ぶりだった。
真耶から渡されたクリアホルダーを握り締めた翼は、扉の前で立ち尽くしていた。
どうやって部屋に入ったらいいか分からない。何度も引き返そうとして、その度真耶の声が聞こえる。
勇気を出して。
(何から話したらいいんだよ? ……すき、だなんてさ)
真耶はそう言えと言ったけれど。自分の心の中でさえ、一拍置いて構えないと言えない。
澄也を好きだと思うのは、辛かった。
でも分かっている。好きでもないのに、こんなに胸が痛むはずない。こんなに息苦しく、笑っているのも辛いと思ったりしない。
澄也の匂いをつけた誰かとすれ違う度に、引き裂かれそうな気持ちになんて、なったりしない。
意を決して、翼は部屋の扉をノックした。返事はない。
今度はノックの後、声をかける。
「先輩、青木翼です。渡すものがあって来ました。入っていいですか?」
返事もなければ、扉も開かなかった。
木製の扉は沈黙して、冷たい。全身で翼を拒否している気がした。
引き返そうかと一瞬よぎった弱気を押しのけ、翼はノブに手をかけた。回すと、扉は難なく開く。
入り口に巣はなかった。
「…先輩?」
部屋に踏み入れる。電気はついておらず、ベッドサイドのスタンドライトだけが灯っていた。
数歩踏み入れて、翼は足をとめた。
「あ…は、うん…すみや…」
ベッドで絡み合う二つの影。組み敷いた影の上に覆いかぶさっていた澄也が、うるさそうに翼を振り返る。
「何だ」
びくり、と肩が震えてしまった。
口を開いたが、声が出ない。心臓がドキドキと激しく鳴る。
「見にきたのか?」
馬鹿にしたように笑い、澄也が抱いた男の尻を突き上げた。喘ぎ声があがる。翼はクリアホルダーをソファの上に置いた。
指先がぶるぶる震えている。澄也はもう翼を忘れたように、無心に腰を動かして、相手を喘がせている。
ちらりと眼を向けたら、澄也が相手の唇を舐めていた。
「……お前は、可愛いな」
囁く声につられたように、濡れた声が響く。
気がついたら、部屋を飛び出していた。廊下を駆けて、階段を走り降りる。
心臓がばくばくと鳴っていた。痛い。痛い痛い痛い。
(バカか、俺。夜来たら、そりゃこうなってるって。澄也先輩が一人でいるって考えないだろ、普通)
来る時間間違った。せっかく真耶先輩が、お膳立てしてくれたのに。好きだなんて言う以前に、会話もできてねえじゃん。あー、ばっかみてえ。
(何なんだよ!)
自室に飛び込み、ベッドに身を投げ出すと思わず枕を殴っていた。
怒りなのか悲しみなのか、感情が波のように翼を襲った。
「何だよ、何なんだよ……、こんなの」
こんなのって、ない。
可愛いな。
あんなこと、言われたことがない。抱かれる時にさえ。
(男が可愛いとか言われたって嬉しくねえっての、別に言ってほしかったわけじゃないし。ていうかキモいよな!)
なのにどうして、身が焦げそうなほど、苦しいんだろう。
心の奥から、どうっと溢れてくる。焼けるような気持ち。組み敷かれて、挿れられて、唇を舐められて可愛いと言われていたあの男が、羨ましい。
身がちぎれそうなほど、羨ましい。
(泣くもんか、泣くもんか、泣くもんか)
ぐっと眼に力をこめてつむる。
真耶はああ言ったけれど、絶対に無理だと翼は思った。澄也は自分がいることなんて忘れて、あの男を抱いていた。きっと毎晩、あんなふうに別の誰かを抱いている。
束の間。
澄也がこぼした優しさを、もう思い出さないと決めた。
剥がれ落として、削ぎ落として、忘れたほうがいい。
瞼の裏に映る、メキシカンレッドニータランチュラ。勇気の源だった、澄也の言葉。
(俺、ほんとに消せるのか……?)
枕に顔を埋めて、翼はうめいた。
心配した央太が、カーテンの向こうから名前を呼んでいる。起き上がって、何でもないと笑うことが、翼にはできなかった。