九
ない、と翼は眉を寄せた。
「ここに入ってると思ったんだけどな……」
昼時。
長い半円窓が連なる廊下には、さんさんと光が射しこんで明るい。規定カバンの底をあさりながら、翼はキュイジーヌ・オリオンへと歩いているところだ。横の央太が、不思議そうに首を傾げた。
「何がないの? 翼」
「薬」
「あの、いつも飲んでるカルシウム剤?」
カルシウム剤じゃないんだけどな、と思いながら翼はカバンを閉じた。あの薬は、性モザイクの翼には重要なもの。ホルモンバランスを調整し、翼の女性機能を抑える働きがある。
(一回飲まなかったくらいでは影響ないだろうけどさ)
何となく落ち着かない。思春期に入ってからは、ずっと飲み続けていたから、女性ホルモンが通常どおり活躍したら、自分がどうなるのか翼には予備知識がなかった。
(ま、いっか。夜はきちんと飲もう……)
「あ、翼、張り出されてるよ! 中間考査の結果!」
食堂前の幅の広い廊下に、人だかりができている。
早いもので季節は五月も下旬、新緑は濃くかたくなり、陽射しは日に日にきつくなっている。今年は一足早く衣替えが行われ、翼も央太も、半そでのシャツになった。つい先日には中間考査が行われ、その結果も出た。
掲示されているのは各学年の、上位五十名。
三年生の掲示を見て、翼は「おお」と呟いた。
一位が、澄也だった。三位に真耶、五位に兜の名がある。
(すげ……ていうか、澄也先輩一位とかとっちゃう人だったんだ)
意外だ。上位にいるだろうとは思っていたが、首席には興味のない人だと思っていた。
「つ、つばさ…ッ」
央太がいきなり、翼の腕を掴んできた。なぜか、ぷるぷると震えている。
「何だ、央太。しょんべんか?」
「な、何で教えてくんなかったのっ、つ、翼、五位だったのぉ!」
「え、あー」
一年生の順位表に顔を上げる。五位、484点。青木翼。
「すごいじゃない、翼くん」
食堂に行くと、真耶が声をかけてきた。ちょうど兜と澄也も一緒で、翼と央太はその向かいに促されて座った。
食堂中の嫉妬が集まるのを感じたが、翼はもうすっかりその視線に慣れている。
「真耶先輩だって、三位でしたね。点数すごかったし」
真耶の合計点は496点。首位の澄也とは二点差でしかない。
「驚いたのは澄也だけどね、いつもは十位近辺をうろついてたんだけど」
くす、と笑って真耶が澄也を見る。
「今回は勉強したみたいだね、どういう風の吹き回しだか」
端の席で、澄也はうるさそうに眉を寄せた。
「シジミちゃんも頑張ったねぇ、どうやってお勉強したの?」
「ぼくにも教えて教えて」
兜の言葉に便乗し、央太が顔を覗きこんでくる。翼は苦笑した。
「澄也先輩が教えてくれたんだよ」
「ええっ!」
大声をあげたのは真耶だった。ぎろっと澄也を睨む。兜はニヤニヤしているし、央太はなぜか頬を染めていた。
「つ、翼くん、それって勉強だけ…なんだよね?」
「そんなわけないだろうが。セックスのついでに教えてやったんだ」
かーっと翼の頬に熱が上った。
(しまった、言わなきゃよかった…)
多分、兜は気づいていたんだろう。フォークとナイフを持ったままプルプル震えて、歯軋りしている真耶と違い、ニヤニヤと面白そうに事態を観察している。
「なんか想像しちゃったよぉ……だから翼、毎晩いい匂いしてたんだぁ…」
運んできたランチプレートに手をつけることも忘れて、央太がぽーっとなっている。
恥ずかしくなってきて、翼は火照る顔を隠して手持ちの弁当を広げた。
シルベール事件から七日後、お風呂でいたしてしまってから以後、翼は二日おきに澄也の部屋へ引っ張られている。
二度に一度は最後まで抱かれる。意外にも翼の体を気遣う澄也が、最後までしない日でも、それなりに触られるしキスは絶対。
どうして、自分が拒まないのか翼にも分からない。
(だって気持ちいいんだもんな……あー、俺って、すげえ淫乱だったのかも…)
翼の体には、澄也の匂いがしっかりと染み付いている。澄也の言う通り、勉強は、最後までセックスをしない日に教えてもらっていた。
「シジミちゃん、その弁当手作り?」
兜が興味津々の様子で翼の手元を覗き込んだ。
「よかった。ちゃんと台所使えてるんだね」
「真耶先輩のおかげです。ありがとうございます」
毎回、食堂のランチを食べていてはお金がもたない。真耶に相談したら、寮の食堂の台所を特別に使えるよう、手配してくれた。食材は寮食堂の調理場に入ってくるものを、少しずつ分けて売ってもらえることになり、格段に楽になった。
「わあ、その卵焼き、個性的だね」
「…う、これから上手になるんだよ」
ぐちゃぐちゃの巻き卵を、それと知らない央太に感心されて翼は首をすくめた。料理なんてほとんどしたことがないから、本を見たり調理場のおばちゃんに教わったりしながら、試行錯誤で作っている。
失敗した甘い巻き卵に、形の悪い野菜の肉巻き、ご飯に海苔をかぶせおばちゃんから分けてもらったホウレン草のナムルと、冷凍をチンしただけのコロッケ。見た目は悪いが、味はまあまあだ。
「珍しいな、澄也が群れて食事するなんて」
甘いバス・バリトンが突然呼びかけてきて、食堂中の意識が一斉に声の主に集中する。
顔をあげた澄也の無表情に、珍しく驚きが乗った。
「…陶也?」
澄也の視線の先へ、翼も振り向いた。
立っていたのは、背の高い美男子。
「相変わらず無駄に色気を振りまいてるな。オリオンに入ったとたん、お前の香りがした」
そう言う彼自身からも、甘く濃密な香りが漂ってくる。澄也や兜と同じくらい背が高い。まず眼をひくのは鼻筋の通った甘ったるい美顔と、日に当たると白に輝くプラチナブロンド。瞳の虹彩は、澄也と同じ琥珀色だ。
(ハーフ…?)
微笑む口元には圧倒されるほどの色気があり、誘引フェロモンの強さは間違いなく澄也と同レベルだ。
「イギリスから戻ってたのか?」
「三日前にな。お前に会いたくて戻ってきたんだ」
プラチナブロンドの美形が澄也の肩に腕を回して屈みこむ。顎をあげて、口付けするように間近で眼を見合わせた澄也が、ふっと苦笑した。
見ていた翼は、単純に驚いた。
(こんな顔、するんだな……)
いつも無表情で、つまらなさそうな澄也。笑うことさえ珍しい。気を許したような表情に、わけもなくドキドキする。
「どうせ、あっちの餌が性に合わなかったんだろう」
「イギリスは男も女も美人ばかりだったぜ。でも、ちょっと食い飽きたかな。俺は東洋人のほうが好みだ」
肩をすくめ、彼は視線を兜と真耶に向けた。
「二回目の二年生かい、陶也」
「そういうこと。兜は生徒会長様だってな? 偉くなったもんだ」
「ずっと帰って来なくてよかったのに」
兜と陶也の会話を遮ったのは真耶だ。
「よォ、真耶。相変わらずの美人だ」
真耶の傍らに回りこみ、陶也がその肩に触れようとした瞬間、真耶の右手が動いた。雷電のように、真耶の持つナイフがきらめく。切っ先を陶也の手のひらに向け、突き刺さる直前でナイフはぴたりと止まった。
「…触ったら刺し殺す」
凍えるほどの冷たい声で言い放ち、真耶は陶也をぎろりと睨む。絶対零度の冷たさが、真耶の全身からほとばしっている。陶也は肩をすくめて両手をあげた。
「…恐ろしさもお変わりなくって何よりだぜ、女王様」
真耶を諦めた陶也は、向かいの央太を見て微笑んだ。甘く広がるフェロモンに負けた央太が、ぽうっと頬を染めて放心する。
「可愛いな、一年生か?」
ふと、隣の翼を見た陶也の表情が止まった。
「…まさか、シジミチョウ? その匂い…澄也のお手つきか?」
眉が寄り、苦笑気味の顔になると、陶也は呆れたように澄也を振り返った。
「お前、こんなのを食ってるのか? よりによって、シジミチョウ? 美登里の二の舞になるつもりじゃないだろうな」
(こんなのって…失礼じゃねぇか?)
翼はムッと口を歪める。
「美登里と俺を一緒にするな」
「やってることは同じだろうがよ」
苦笑をおさめた陶也を無視して、澄也が立ち上がった。
「おい、澄也、」
トレイを持ってそのまま立ち去る澄也を、陶也が追いかけていく。食堂から二人が消えると、真耶が肩を落として息をついた。
「一年はイギリスに行きっぱなしと思ってたのに……」
「厄介なことになりそうだねぇ、マヤマヤ」
「あの淫蕩蜘蛛のせいで、澄也のアホに拍車がかかるだろうね」
真耶はイライラと断定し、翼を見た。
「翼くん、陶也が帰ってきたからには、澄也にも近寄らないほうがいいよ」
(近寄るなつったって……)
いつも、拉致しにくるのは澄也なのだ。
「真耶兄様、あの人って誰なの?」
訊ねた央太に、兜が答える。
「陶也は高校からの編入だから持ち上がり組の央ちゃんも知らないよねぇ。あれはね、七雲陶也。ブラジリアンホワイトニータランチュラで、澄也の従兄弟だよ、陶也のほうが七雲家の本家筋だけどね」
(ほ、ほんけ……)
金持ちだろうとは思っていたが、兜のこの口ぶりからすると七雲家というのはかなりの名家なのかもしれない。
「澄也は単なるアホだけど、陶也は価値観そのものが破綻してる。体格も能力も恵まれすぎていて、他者の痛みが分からないし、初めから関心がない。シルベールとは違った意味で、偏った階級主義者だ」
真耶が不愉快そうに、兜の説明を追いかける。兜は首をすくめた。
「澄也と陶也は兄弟同然の仲なんだ。ああ見えて澄也はものすごい身内大事の子だから陶也の意見には素直なんだよねー」
「……退屈が生んだ歪みだよ」
真耶がポツンとつぶやく。
「ちょっと勉強すれば首席になれる頭脳、高すぎる能力、誰もが吸い寄せられるフェロモン…何もしないでもすべて手に入るんだ。こんな退屈はないよね。澄也はそれに苦痛を感じてるだけまだマシだ。…陶也は、最悪だよ。階級意識が強すぎて」
翼はこくりと息を呑んだ。
何でも手に入る、つまらない人生だとなじった時、澄也は確かに逆上していた。
あの陶也も、同じような……?
(確かにあの二人、すごく似てた…)
近似種のタランチュラ同士だからだろうか?
「美登里さんの時の修羅場再び、かもねぇ」
「そんな穏やかなものじゃないよ、兜」
真耶は呑気な兜を睨めつけた。
「澄也は分家の長男なんだ。家の病院を継がなきゃならない身だ。ずっともめるよ」
「美登里さんは堂々としてたじゃないかぁ。大丈夫だよ、澄也クンにも同じ血が流れてるんだから」
「澄也のことなんか、全く心配してないよ」
真耶は物悲しげな顔で、テーブルの上に投げ出されていた翼の手を握り締めてきた。
「翼くん、この際だから訊くけど、澄也のこと、好き?」
「……えっ」
思いがけない質問に、翼はわけもなくうろたえた。
(すき…? 俺が、澄也先輩を? 好き…)
頬に熱が集まってくる。いたたまれない気持ちで、翼は首を横に振った。
「お、男同士で好きとか……普通ないですよ」
「えーっ? 翼と澄也先輩って付き合ってるんじゃなかったの?」
央太が、心底驚いたように叫んだ。
「ンなわけねーだろ」
「えー、だって、えー……じゃあ、二人はヤリ友ってこと?」
「央太ッ、どこでそんな言葉覚えてきたんだいッ」
真耶に噛みつかれながら、央太はきょとんと首を傾げた。
「だって、翼は澄也先輩が好きで、澄也先輩は翼が好きなんじゃないの? どう見てもラブラブなのにぃ。違うの?」
央太の丸い眼でじいっと見つめられて、翼は「うう」と黙り込んだ。
(そりゃ嫌いじゃねえけど……)
嫌いじゃないから、本気では拒まない。でも、それなら好きなのかと訊かれると翼は今までそんなふうに考えたことがなかった。
「翼くん、痛みが少ないうちにやめたほうがいい」
真耶が真面目な口調になる。
「こんなこと言いたくないけど……澄也はハイクラス屈指のタランチュラなんだ。傷つくのは、きっと君になる」
手をとられ、眼を覗きこまれた。痛みをこらえたような真耶の表情に、翼の心臓がどきりと鳴る。
「……大丈夫ですって。そろそろ、澄也先輩も俺に飽きるだろうし」
(あれ…)
自分で言った内容に、ずきりと心臓が痛み走り、翼は驚いた。戸惑いが、胸の奥でぐんと膨らむ。
「今まで俺のこと相手してたのも、どうせ気まぐれですよ」
(痛い)
心臓が、ずきずきと痛んでいる。
言った直後で、急に澄也に謝りたいような気がした。
……優しくしてくれたことは事実だ。それさえも、自分の言葉で否定した気がする。
(だけど…、でも、澄也先輩が俺を好きで、俺が澄也先輩を好きで…なんてことは、ないだろ?)
真耶の顔はまだ物悲しい。兜はグラスの水をすすった。央太は、おろおろして真耶と翼を見比べている。
翼はからりと笑って、立ち上がった。
「俺だって、澄也先輩のことなんとも思ってねえ、し」
声が乾いて、空々しい気がする。
心臓は、まだ痛い。
翼は息を吸い込んで、その痛みを追いやろうとした。
午後の授業、翼はほとんど上の空だった。
放課後になり、生徒会室に行く前に寮に寄って薬を飲むつもりだった。
お菓子クラブに行ってしまった央太と別れ、校舎を出て中庭を横切っていたら、庭の芝生に澄也と陶也が並んで腰をおろしているのが見え、翼は咄嗟に木陰へ身を隠してしまった。
(ていうか、何で俺、隠れてんだよ)
無意識の行動だ。
こそこそするのが嫌いな翼だ。やっぱり出て行こうと足を踏み出しかけた時、不意に陶也が
「あのシジミチョウだけど」
と切り出すのが聞こえ、翼は息を詰めて固まった。
「澄也、他に食ってるヤツもいないんだな。まさかと思うけど、本気になっちゃいないよな?」
「バカ言うな」
澄也は吐き出すように言い、ごろりと芝生に横になる。
「じゃあ何であのシジミチョウだけ? かなり匂いが染み付いてたぜ。十回は食ってるだろ」
「美食に飽きたんだよ。珍味が食いたい時もある」
(ち、珍味…!? 俺のことかよ!)
ムカアッときた。散々抱いておいて、珍味とはなにごとだ。
(確かにそうかもしれねえけど、腹立つぜ!)
開いた両膝に肘を乗せ、陶也が呆れたように笑って寝転がる澄也を振り返った。
「いかもの食いが続いてるっていうのか?」
「そうだな」
澄也と同じ琥珀の眼を細めた陶也が、不意に澄也に覆いかぶさった。甘い笑みを浮かべたまま澄也の両頬を両手で撫でて包む。木陰で息を潜めていた翼はぎくりと身を固めた。
「……それじゃ、いつものように俺にも食わせてくれるだろ?」
澄也の眼が見開き、陶也は澄也に、触れるだけのキスをした。
「俺を食う気か?」
「まさか。…澄也のシジミチョウだよ。俺にも食わせろよ、そこそこ旨いから、相手にしてるんだろ」
「やめておけ。珍味だと言っただろう。旨くはない。面白くもない」
どく、と翼の首筋で、太い血管が脈打った。腹の底が熱くなり、澄也の言葉に対する怒りを感じる。けれど同じくらい、胸がずきずきと悲鳴をあげた。翼は服の上から、左胸を抑える。
「庇うのか?」
「誰が。不味いからやめておけと注意しただけだ」
「フン、不味いのを何度も食ってるって? 嘘つきだな、澄也。……そらみろ、思ったとおりだ。お前は美登里と同じだな」
突然澄也が起き上がり、上の陶也を押しのける。その顔に、剣呑な色がある。
「シジミチョウに執着してるんだろ」
「していない。どうして俺が、あんな地べたの虫けらに執着する」
「ふぅん、なら、俺にも食わせるな?」
澄也は陶也をじろっと睨み、吐き出すように答えた。
「勝手にしろ」
勝手にしろ。
その一言。
翼の中に、銅鑼のように響く。
(物のように扱うつもりもないって)
ないって、言ったじゃねえか。
(お前、それって俺の事……物扱いと一緒…)
眼の前が、くらっとした。次の瞬間翼は、銀杏の陰から飛び出していた。
「ふざけんなよ! さっきから聞いてりゃ食わす食わせない、俺は物じゃねえし、澄也先輩の許可があれば食えるわけでもない!」
飛び出した翼が、怪訝な顔になる澄也を視界にとらえた、一瞬。
突然陶也の指先から糸が飛び出し、翼の体に巻きついた。
「うわ…ッ」
糸を引かれ、あっという間に芝生へ薙ぎ倒された。襟ぐりに陶也の手がかかったと思うと、鮮やかな手さばきで組み敷かれていた。
「…ふん、どこからどう見てもただのロウクラスだな…ちょっと甘い匂いがするが……」
首筋に鼻先を埋め、陶也が翼の匂いを確かめる。
「は、放せよっ」
「なるほどな、これが美登里や澄也をたぶらかしたシジミチョウの特有フェロモンってわけだ」
体を動かそうとしても、がっちり押さえこまれていてびくともしない。だがそれより嫌悪感を覚えたのは、陶也の視線が翼の眼をほとんど見ないことだ。わめいても、無視されている。聞こえていない。ないものとして扱われているのだ。
背筋に、ぞっとしたものが駆けた。
(マジでこいつ……俺のこと人間と思ってねえ…)
「おい、ここでヤる気か」
「移動すんの面倒だからな」
澄也がかけた声に、陶也はしらっと答えた。
「…やめておけ。人が来るぞ」
「回れ右するだろ。見たいヤツには見させておけばいい」
陶也は翼の前髪を掻きあげた。頭を振って抵抗したら、首を掴まれる。ぐっと力を入れられ、締め付けられた。
「か…はっ」
喉が痛くて、唇を開けて顎を反らす。そこに、陶也の唇が落ちてきた。柔らかな肉の感触が、ぐっと唇に押し付けられる。その時だった。
「ぐッ!」
いきなり陶也が仰け反った。自分の首を掻き毟り、陶也が横に倒れる。銀色に光る細い糸が、その逞しい首に巻き付いている。翼の体を戒めていた糸が切れ、襟ぐりを掴まれて引き起こされた。
「いてえ……」
よろよろと上半身を起こした陶也が、気だるげに顔をあげた。その首から、力を失った糸がハラリ、と落ちる。
翼は、澄也に引き寄せられていた。
(……先輩、)
助けてくれた?
見上げると、澄也は青ざめていた。信じられないものを見るような顔で、じっと陶也を見つめている。芝生に座ったままの陶也の顔からは、笑みが消えていた。
「バカが。美登里と同じ毒にやられたな」
「違う」
眉を寄せ、澄也が否定した。その額にじわりと汗が浮かぶのを、翼は見た。
「…違わないぜ。じゃなきゃ、澄也、俺にこんな真似をするか?」
「こいつは俺の餌だ。いくらお前でも、眼の前で食われたら気分が悪い」
「ははっ、いつからそんなお優しくなった、兄弟」
陶也は神経質に笑い飛ばした。
「ベッコウバチもカラスアゲハも、フラットロックスコーピオンもお前の眼の前で抱いたぜ。お前はつまらなさそうだった。すぐに狩れるヤツは面白くないと言ってたな? 今腕の中にいるシジミチョウは狩るまでもない。一秒もあれば押さえつけられる。いつから老人になった、澄也。タランチュラの誇りも失くしたのか、美登里のように」
「黙れ」
うなるように、澄也が陶也を睨む。
「お前は俺の首に糸をかけて引き倒したんだぜ。兄弟同然の、ブラジリアンホワイトニーの俺よりも、シジミチョウを選択したんだ。一族が知ったらどう思うかな」
陶也はため息をついた。澄也を見上げる顔は、悪意のかけらもない、不思議そうな表情。
「…なあ、どうしたんだ、澄也。お前、変わったな。毒気がないぜ」
(…先輩?)
ドキドキしていた。怖さで、だった。
澄也が硬直し、言葉も失って陶也を見つめていた。微動だにせず、翼を見もしなかった。
「俺は別にさ、そんなシジミチョウ抱きたいわけじゃない。ただお前を試したんだ」
陶也が立ち上がる。澄也の腕が、翼から離れた。
「いつもの澄也はどこにいったんだ?」
「ここにいる。俺は変わらない」
ゆらりと澄也の影が動いた。琥珀の眼がすがめられ、苛立たしげに翼を見つめた。
胸元に衝撃を感じた。澄也に押されたのだ。数歩よろけて、翼は尻餅をついた。
「行け。遊びは終わりだ」
声が出ず、翼はただ澄也を見つめていた。何が何だか分からなかった。分かったのは、今急速に、澄也の関心が自分から離れていこうとしている。ただ、それだけ。
澄也は眉を寄せた。なぜか息苦しげに、舌打ちする。
「消えろ、シジミチョウ……」
(シジミチョウって……)
俺、翼って名前があるんですけど。
しかもツバメシジミだし。せめてそこまで言ってくんない。
第一さぁ…翼って、アンタが最初に名前聞いたんだぜ。
文句が、後から後から頭の中を駆けるのに、口からは出なかった。
澄也が背を向けた。翼には眼もくれず、陶也が追いかけていく。
遠ざかる二つの背を、翼はぼうっと見送った。
寮に戻って薬飲まねえと。
生徒会にも大幅遅刻じゃねぇ? 真耶先輩に怒られるな…。
早く戻って、早く、早く――。
(……あ、分かった。俺、ほんとにこれで飽きられたんだ)
終わった。
花壇に咲くサツキの花から、甘い蜜の匂いが風に乗ってやってくる。黄昏を前に、昼下がりの陽光は金色に眠たい。
サツキの花ももうすぐ終わる。
終わる頃には、梅雨がやって来る。