愛の巣へ落ちろ! 




  十二

 朝の低い光が、レースカーテンを通して淡く差し込んでくる。
 翼の寝そべったベッドに腰掛けた央太は、体温計を覗き込んでホッと息をついた。
「よかったぁ、昨日より下がってるよ」
「…学校、昼から行けっかな…」
 まだいがらっぽい声で応じた翼に、央太は叱るような目を向けた。
「ダメだよ、こないだもそう言って無理したから、翌日熱あがったんでしょぉ。微熱はあるんだから」
「でも俺、そのうち出席日数ヤバくなるんですけど…」
「まだ大丈夫だよ。翼は成績いいんだから」
 央太は翼の額から温くなったおしぼりを下ろすと、絞りなおしてくれた。
「真耶兄様怒ってた。澄也先輩のこと刺し殺すって」
「先輩のせいだけじゃないって」
 苦笑した翼に、央太が不安そうに顔を寄せる。
「もう何もされてないよね…? あれから、会ったりしてないよね?」
「してねーよ」
「澄也先輩の執着なのかな……」
 央太がため息をついた。
「ちっとも先輩の匂い、薄まらないよね…。もう二週間以上経つのに」
 二十日、経っていた。
 澄也に犯された――あれはレイプだと、翼は思っている――日から、二十日。夏休みを間近に控え、梅雨もぬけようとしている。期末考査も終わった。
 日に日に陽光はキツくなり、地に落ちる影は濃く深くなっている。
 澄也に抱かれた直後、翼は三日間高熱を出して寝込んだ。
 それからずっと、体調がおかしい。ちょっと楽になって登校しても、翌日には熱を出してベッドから出られない。
 食欲もなく、胃が弱っている。眠りが浅く、夜中に何度も目が覚める。
 期末考査の半分は受けられず、夏休み中に追試を受けることが決まっていた。当然、順位は正式なものではないが、五十番内に入ることもできなかった。
 翼が澄也にまた抱かれたことは、匂いですぐに知れた。
 毎日のように見舞いにやってくる真耶や兜と違って、一度も顔を出さない澄也とはあれきりだ。
 けれど匂いは少しも薄れない。あの時、何度も何度も抱かれたからなのか、中で出された澄也の精液を、気絶したまま掻き出さず飲み込んでしまったからか、翼には分からない。
 翼自身がたてる蜜香とまじり、寝ていると、匂いの強い花の中で眠っているようだった。
 体の調子がおかしいのは、澄也とのこと以上に薬のせいだろう。でも、あと十日もすれば夏休みが始まり、とりあえず家に帰れる。
(あとちょっとの辛抱…帰ったら、すぐ薬もらいに行こう……)
 まだ心配している央太を学校へ向かわせると、部屋の中は急に静かになった。寮の廊下に微かに響いていた寮生の足音も消える。遠く、雀のさえずりと一緒に予鈴の音が聞こえてきた。 布団の内側にこもる息は熱く、体は汗ばんでしっとりと湿っている。
 一人になると、考えないようにしていても、いつの間にか澄也のことを思い出している。
 一年半前、まだ団地に住んでいた自分が見た、あのテレビ。
 思い返すたびに勇気をもらった澄也の言葉を反芻しても、翼は胸が詰まるだけだ。
 枕元に投げ出された熱っぽい自分の指を見つめる。
(こんなに弱気なのは、多分、体のせいだよな…)
 体が弱れば心にも弱気が入りやすいことを、翼は十分知っている。苦しい時にはじっと耐えるしかない。その忍耐が、自分を育てることも知っている。
(だから平気だ。……きっと、薬を飲んで元気になったら…前みたいに、頑張ろうって思えるはず)
 ――そんなんじゃない。
 そんな簡単なものじゃない、これは。
 心のどこかでする声を聞かないように、翼は目を閉じて浅い眠りに身を投げた。

 翌日、翼は二日ぶりに登校した。熱は下がっていたが、かわりに朝から吐き気が続き、朝礼の前は机にぐったりつっぷしていた。
 突然バン! と机を叩かれて翼はのろのろと顔をあげた。
「やっと捕まえたよ、青木翼」
 立っていたのはシルベールだった。翼の机の前にいつもの取り巻きをつれて仁王立ちになり、眉も目も吊り上げている。
「な、ななな、何の用ですかぁぁぁ」
 調子の悪い翼を守ろうと、央太がぶるぶる震えながら出てくる。
「いいよ、央太」
 体がだるい。まともに相手にするのもばかばかしく思いながら、翼はため息をついた。
(……面倒くせぇヤツ)
「連日不登校なんていいご身分だねッ、このボクが探してるのも知らず!」
「はあ…」
 シルベールの男にしては高い声が、キンキン頭に響いてうるさい。
「君はボクが言ったこと、理解してなかったみたいだね…!」
 こめかみに指を当て、翼は頭痛に耐えた。
(うるっせぇ……)
「澄也に近づくなって言ったのに……まだまとわりついてるなんて!」
「…ついてねぇよ、匂いはもう三週間も前のだぜ。第一、そのことで先輩に文句言われる筋合いねぇし」
 翼の返答に、シルベールは真っ赤になって地団太を踏んだ。
「シジミチョウのくせに生意気な〜ッ! お前がその態度なら、もう我慢しないよッ、ボクの恐ろしさを思い知るがいい!」
 びしいっと指を指されても、反応に困る。
ホームルームの予鈴が鳴ってやっと、シルベールは引き返して行った。数人連れていた取り巻きも一緒に去ったけれど、一人だけ、鎌野が残っていた。
「青木、具合悪いのか?」
 何故か気遣うように訊かれ、翼は胡乱な眼で鎌野を見上げた。そういえばこんな顔だったっけ、と失礼なことを思う。
「あー、ちょっと。つうかアンタらの姫君のせいだけどな」
 鎌野はポケットから鎮痛剤を取り出してくれた。
「姫がたまに肩こりされるから持ち歩いてるんだ。よく効くから、飲め」
「え…、あ、どうも」
 どういう風の吹き回しだろう。
 鎮痛剤を受け取りながら、感謝より先に疑問が湧く。鎌野は翼と指が触れると、何故か薄っすらと頬を染めた。
「青木、お前って実は……」
「?」
 視線を合わせると、鎌野は茹でたタコのように赤くなる。そのまま、「何でもない」と焦ったように出て行った。
(何だアレ)
「翼、すごぉい……」
「何がだよ」
「モテるなあーと思って」
「何も持ってねぇよ」
 力が抜け、ぐったりと机に伏す。央太が「そういう意味じゃないってば」と唇を尖らせた。
「大丈夫かな。シルベール様怒っちゃった…」
(いや、いつも怒ってるけどな……)
 本鈴が鳴り、教師が入ってきた。央太が心配そうな面持ちで席に戻っていく。翼はむっくり起き上がり、大きく息を吐き出した。

 放課後生徒会室に行ったら、真耶に無理矢理帰らされた。寮に戻る頃には、また微熱が出ていた。
 自室のベッドに倒れこむと、そのまま、泥のように眠った。ハッと気がついて眼が覚めた時、部屋の中は暗く、時計は九時を指していた。
「うえ…気持ちわり…」
 寝ている間に熱があがったのだろう、布団もシーツも脱ぎ忘れていた制服も湿り、前髪がべっとりと額に張り付いていた。
「翼……起きたの? 大丈夫?」
 カーテンが揺れて、央太が顔を出す気配がある。
「食堂からご飯もらってこようか?」
「いや、いい。食欲ねえから……サンキュな。悪いけど、電気つけてくれるか?」
 央太が部屋に入ってきて、電気を灯してくれた。シャツのボタンをはずしながら、翼はのろのろと床に下りる。
「俺、ちょっと風呂入るわ」
 とにかくこの汗を流してしまいたい。ちょうど央太も風呂からあがったばかりらしく、髪は濡れ石鹸の匂いが漂っていた。
「翼、それがね、ぼくらの部屋のお風呂壊れちゃったんだ」
 央太が困り顔で首を傾げた。
「ぼくも今日、こっちで入ろうと思ったんだけど…栓がゆるんじゃってたみたいで、ひねったら蛇口がとれて、お湯が出せないの」
「ええ? そんなん、工具持ってきて直しゃいいだろ…?」
 寮長か副寮長が、管理しているはずだ。
「ヴィクトリアン調の特注蛇口だから業者を呼ばないとダメなんだって」
「……」
 いかにもこの学園らしい弱点だ。頭痛が増した気がして、翼は額を押さえた。
「共同風呂行っておいでよ」
「……混んでないか?」
「いつも人、ほとんどいないよー。さっきもガラガラだったよ」
 そういえば、何度か央太と行った時も常に二人きりだった。共同風呂を利用するのは一年生がほとんどで、皆バラけて入るから基本的に風呂はいつもガラガラだ。
 胸元を撫でてみる。薬をやめてから体調は悪いけれど、体が女性化しているわけではない。
 翼は着替えを持って、一階の共同風呂におもむいた。
 央太が言ったとおり、風呂はガラガラで、誰もいない。脱衣所で服を脱ぐと、翼は辺りを確かめて翅を出した。
 壁の鏡に映して見る。瑠璃の翅に、黒まだら。
 性モザイクの特徴が、見て分かるほどに現れている。
 ため息をつき、翅をしまう。
(早く、薬飲みてぇ……)
 不安なまま、夜は更けていく。


「翼くん、今日も顔色悪いね。無理して行くことないよ」
「シジミちゃん、朝ごはんそれっぽっち?」
 翌朝、忙しない雰囲気の寮食堂で真耶と兜が声をかけてきた。
「…先輩たち、珍しいっすね、この時間に食堂にいるの…」
 翼は央太と並んで、ハチミツ入りの温牛乳を飲んでいた。
「たまたまね、今日は生徒会も当番もなかったから」
二人は生徒会の仕事や、寮生たちの送り出しで朝は忙しく、食堂には他の生徒たちよりずっと早く入って朝食を済ませているのが常だ。
「だから心配なシジミちゃんの様子を見ようってことになったんだよん」
「翼くん、牛乳だけ? 他にも食べないと」
 向かいの席に座りながら、真耶が心配そうに顔を歪める。
「なんか食べると気持ち悪くて……あ、でもビタミンはとってます」
翼はスライスしたレモンを小皿にもらっていた。レモンの酸っぱさは、胃部にわだかまる不快感を少し和らげる。他のものは食べる気にならなかった。
「レモンだけ? お昼はちゃんと食べてるんだろうね?」
「一応…、すいません。心配かけて」
 真耶が怒ったような顔になる。自分のトレイから紅茶のカップをとりあげて一口飲む。多分、昼食をろくにとっていないことも、バレているのだろう。
「そんな少ない食事で、また倒れても知らないよ」
「……ごめんなさい、真耶先輩」
 刺々しかった真耶の雰囲気が、ふっと和らぎ、その眼にいつもの優しげな色が戻った。
「翼くん、無理しないでね。僕らは、シジミチョウの体の強弱を知らないんだ。……どこからが無理で、どこまでが大丈夫なのか、分からないんだよ」
「はい、ありがとうございます」
 翼は微笑んだ。真耶や兜、央太の気遣いに支えられている自分を感じる。
(あとちょっと、あとちょっとの辛抱……)
 ぎりぎりのところで続けている生活を、もう少し頑張ればきっと元気になれる。ちらちらと浮かび上がる澄也の影を無視し、翼は深呼吸した。
 央太と二人で登校すると、正面口の中央掲示板に人だかりができていた。
「何だろ、今日って何かの発表あったっけ?」
 央太が眼をぱちりとしばたく。
「後で見にくればいいだろ、行こうぜ」
 体調の悪い翼は早く座りたくて央太を促した。とたん、人だかりがパッと振り向いて翼を見つける。
 群れている生徒たちから、苦笑、失笑があがる。
(…何だよ?)
「翼くん」
 人群れを掻き分けて、真耶が出てきた。その顔が青い。後ろの兜も見たことのない厳しい表情だった。
「真耶先輩…? どうしたんすか?」
 真耶は後ろから抱き込むように翼の両肩を包む。
「早く教室に行ったほうがいい」
 どこか焦ったような口調だった。翼は掲示板を振り返る。大きく張り出されたのは、毎月二回発行される校内新聞の記事だった。
 号外、と銘打たれた記事に写っていたのは、翅を広げた翼の写真だった。尻から上を写しただけのものだが、翅を振り返っている顔は翼のもの、大きな翅は黒まだら。
 ――性モザイクが男子校にいた!
 10000頭に1頭の珍しさ。彼は男なのか、女なのか。
 くらり、と視界が回った。
「え〜、これって本当なのかなぁ。ねえ青木翼くん、違うっていうなら、翅を広げてくれない?」
 勝ち誇ったような声が響き渡る。満面に笑みをたたえたシルベールが人だかりを割って現れる。
 ピンときた。間違いない。
(こいつ――……)
「だから、思い知らせてやるって言ったのに」
 頭から、冷たいものが落ちてきた。
 思い出した、シルベールに捕まった日、逃げようとして翅を広げた。あの時、シルベールは翼の翅を仔細に眺めていた。
(気づかれてた……)
 背筋を冷たいものが走る。風呂が壊れていたのは、シルベールが取り巻きを使って細工したに違いない。ドゥーベにも、シルベールの「騎士」は何人もいる。隠したカメラで、脱衣所に追い込んだ翼の翅を撮ったのだ。金も人手もあるのだから、それくらい造作のないことかもしれない。
「ねえ、君って男なの? 女なの? そういう人が、男子校にいていいのかなあ」
 出てけ! と声がした。叫んだのはシルベールの取り巻きの一人だ。呼応するように、騎士団が一斉に出て行け、出て行け、とコールする。周りの人垣は面白がるように笑っていて、止める気配もない。
「うるさい! 全員刺し殺す!」
 真耶が怒鳴る声も、大勢の出て行けコールに掻き消される。翼は気づいたら、真耶の手を振り払っていた。
 額から冷たい汗が流れた。自分の心臓の音が、どくどくとうるさい。
 シルベールに、人だかりに向かって立つ。足を踏ん張った。倒れないように。
 シャツのボタンをちぎるようにはずして脱ぐと、コールはやんだ。後ろで、ぎょっとした真耶と央太の声が聞こえた。
 裸の胸をさらすと、周りは息を呑んだ。肩甲骨に力を入れる。翅がばっと広がった。
 飛び散る鱗粉。
 瑠璃の黒まだら。陽に透ける蝶の翅。
「そうだ、俺は性モザイクだよ。……だから何だ? 戸籍は男だ、だからこの学園にいる。きちんと、法的に男として認定されてる。俺が男か、女か、だと? ふざんけんなよ!」
 ドン、と足踏みをした。
 固まっているシルベールを、黙り込んだ人だかりを睨み渡す。腹が立っていた、怒りで全身が焼けそうだった。
 我慢していたものが噴きだす。もういい、もう、これで追い出されても仕方がない。そのために背中を向けて逃げ出し、嘘をつくことができない。
「この学園に来てからな、ずーっと思ってたぜ。てめえらみたいなのをめめしいって言うんだ! 他人の足引っ張るのが、そんなに面白いか? 他人を蔑むのが、そんなに楽しいか? くだらないぜ!」
 翼が一歩踏み出すと、気圧されたように人垣が一歩退く。
「明日死ぬかもしれない、命は必ず限りがある、そんなくだらないことに人生使ってる時間、もったいねえと思わないのかよ!? 俺が性モザイクだったら、どうだって言うんだ? 誰も自分の人生を生きてくれない、自分の足で生き抜くんだぜ!」
 言い切った後、とてつもない疲労がどっと背から落ちてきた。翅をしまい、シャツを取り上げる。指先はぶるぶると震えていた。
 吐き気がして、翼は踵を返すとめちゃくちゃに走り出した。
「翼くん!」
「つばさぁ〜!」
 真耶と央太が追いかけてくる。
「な、何だよあの性モザイク!」
 静まり返った人垣に向かって、シルベールがわめいていたが、廊下を曲がって最初のトイレに駆け込むと、その声も消えた。
 洗面台に飛びつき、翼は嘔吐した。
 ほとんど何も入っていない胃からは、生ぬるく腐ったような牛乳と、溶けかけたレモンの切れ端の後には、胃液しか出ない。
「翼くん、大丈夫なの!?」 
 遅れて飛び込んできた真耶が、翼の背をさする。
「……シジミちゃん、妊娠してないよね?」
 扉口に立った兜が、ふと言った。
(妊娠……?)
「性モザイクだから、女性機能はあるんでしょ…? 今朝もレモン食べてたし。ずっと具合が悪いの、つわり、じゃないよねぇ?」
「何言ってんの、そんなわけ……」
 真耶の声が虚ろになる。
 膝から力がぬけ、翼はヘタヘタとその場に座り込んだ。
「薬……、なくしてから、一度だけ澄也先輩と、した…でもそんなこと」
 あるわけない。
 頭痛がひどくなった気がする。思春期の頃、医者に言われた。
『子どもだけどね、青木くんは女性としての出産もできるから』
 とても考えられないから、その時は必要ないと言った気がする。大人になるまで生きていられるかも分からないのに、子どものことなんて……と思った。
「翼くん」
 真耶が後ろから抱きしめてくれる。体が小刻みに震えていることに、気がつく。寒くて、歯がカチカチと鳴った。
「シジミちゃん、それって、中だしだったの?」
 耳鳴りがする。兜を見上げる。横には泣きそうな央太。
 兜の顔は厳しかった。視界が白んで、神経がギリギリまで細くなっていくのを感じた。
 出された。飲み込んだ。間違いなく。
「……分かった。シジミちゃん、とりあえず今日は、寮に戻りなさい」
 抱きしめる真耶の腕に力がこもる。央太が震えて、大きな眼から涙がこぼれ落ちる。
 力のぬけた手で、そっと、下腹を触った。
 自分の体で、何が起こっているか分からない。
(怖い…)
得体の知れない恐怖が、胸の奥にじくじくと広がった。


  

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