十三
妊娠?
トイレの床にぺたりと尻をつけたまま、翼は呆然としていた。足は萎えて、力が入らない。
予鈴の鳴る音が聞こえてくるが、動かない翼に、兜も真耶も、央太も立ち尽くしていた。
「僕が翼くんを寮に連れて帰るから……央太は、もう教室に行きなさい」
真耶に言われて、央太が「でも…」と口ごもる。
「真耶兄様、翼、医務室に連れて行ったら? 保険医の先生に診てもらおうよ」
「ダメだよ、央ちゃん。妊娠なんて、学校側に知られたらおおごとだからね」
兜がとりなし、央太はしゅんと頭を垂れた。
「いいから行きなさい、央太」
「はい…翼、ボク今日、早く帰るからね」
気遣う央太に返事もできず、翼はコクン、とうなずいた。扉に手をかけた央太が、突然「わっ」と声をあげて後ずさる。
「す、すみ、澄也せんぱ……」
上ずった央太の声に、翼は思わず顔をあげた。戸口に、澄也が立っている。澄也は中を見渡し、床にへたりこんだ翼を見ると眉根を寄せて踵を返そうとした。
「澄也! ちょっと待って」
兜が澄也の腕を捕まえ、引きずり込むように中に入れて、扉を閉めてしまった。
「何の用だ、離せ」
澄也は兜の腕を振り払う。翼は心臓が、どきどきと音をたてるのを聞いた。澄也の顔がまともに見られず、俯く。
「こんなところで集まって、お遊戯の練習か?」
「バカ言うんじゃないよ、このスケベ蜘蛛! あの掲示板見てないの?」
鼻で嗤った澄也に、真耶が歯を剥いて噛み付いた。
「そいつが、性モザイクだっていうあれか」
興味のなさそうな口調で吐き出し、澄也は苛立たしげに腕を組んだ。
(どうでもいい、って……?)
分かっていたのに、澄也のそんな態度に心臓がきしむ。翼は膝の上で、ぎゅっと拳を作る。
「何か言うことあるだろ、翼くんに」
真耶に言われ、澄也はちらりと翼を見た。琥珀の視線が顔の上をさまよったことに、翼の肩はびくりと揺れる。
「…顔色が、ひどい」
ぼそっと、澄也が言う。見当違いの言葉に驚いて、翼は顔をあげた。眼を合わせると、澄也の眉が寄った。ぷいと顔を背けられる。
「痩せすぎだ」
「誰のせいだと思ってるんだい! 第一、そんなことより前に言うことがあるんじゃないの?」
真耶がイライラと返した。
「おい」
辛抱が切れたように、澄也が兜を睨む。
「何を俺に言わせたい。何の茶番だ。さっさと済ませろ、気分が悪い」
「澄也、シジミちゃんのお腹にね、澄也の赤ちゃんいるかもしれないんだ」
兜の声に、翼の心臓が、一瞬、止まる。
澄也の表情も止まっていた。言った兜を見つめ、それから翼を見る。やがて引きつった笑みが、その唇に浮かぶ。
「何の話だ?」
「性モザイクだから、妊娠、出産もできるんだよ。シジミちゃん、つわりみたいな症状が出てるんだ。澄也がシジミちゃんを抱いてから、三週間以上経ってる」
兜の説明が終わるや、真耶が問い詰めるように口を挟む。
「責任とるつもり、あるんだろうね? 澄也」
「責任?」
「当然、結婚するなり、養育費や慰謝料を払うなり、翼くんの要求を呑むなりするつもり、だよ!」
真耶は猛獣のようにぎらついた眼で澄也を睨んでいる。
「結婚? 男と、か?」
「出産の可能な性モザイクなら法的に結婚可能だよん」
「責任とらないつもりなら、容赦しないよ!」
真耶と兜を見比べ、澄也は困惑したように嗤う。
「…お前ら、俺を誰だと思ってるんだ? 七雲家の人間だぞ。シジミチョウと……結婚なんて、許されるはずがない」
後半、澄也の嗤いは消えていた。
呆然としたような表情。声から力がなくなる。琥珀の眼が揺れていた。
シジミチョウと……
(また、それ?)
体の奥、翼の中に通っている芯のようなものが、すうっと抜けていく気がした。
(……俺自身のことは、見て…くんねぇわけ……?)
「家なんて、追い出されたらいい。少しは苦労して、翼くんの痛みを味わえ!」
「真耶先輩」
怒鳴っている真耶の言葉を、翼は遮った。
「…もう、いいんだ。もし子どもができてたら、俺、堕してくるから…」
堕す、と口にした時、胸の差込が鈍く痛んだ。
「待て、誰が堕せと言ったんだ」
不意に澄也が腕組みを解く。焦ったような口調で、一歩踏み出す。
「子どもができてたら、産め」
「君に命令する権利なんかないよ!」
真耶が火を噴き、澄也は舌を打ってぐしゃぐしゃと前髪をかきあげた。
「責任とればいいんだろう。分かった、結婚してやる」
(…何言ってんだ…? この人…)
翼は信じられない思いで、澄也を見つめた。
相当苛立っているのか、澄也はポケットから煙草を出す。兜に喫っちゃダメだよと言われて元に戻し、今度は額に手を当てて首を垂れた。
大きく息を吐き出し、それから、つぶやく。
「俺が、ロウクラスと結婚かよ……」
とたん、翼の中で何かが弾けた。
気がつくと立ち上がり、勢いよく振り上げた拳で、自分より高い位置にある澄也の頬をしたたかに打っていた。
澄也がよろめき、壁に背をつく。頬をおさえて睨まれた瞬間、翼の箍がはずれた。
「二言めにはシジミチョウ、シジミチョウ、ロウクラス、ロウクラスって……ふざけんなよ! そんな責任の取られ方、俺は望んでねぇよ!」
「結婚してやると言ったのに、何が不満だ!」
「不満だらけだ!」
喉が詰まる。怒りと、絶望がいっしょくたになって腹の底からおしあがってくる。胃を切り、喉を裂くような痛みのある熱。
息を切らしながら、翼はぶるぶると震えていた。
(望んでないくせに)
結婚なんて、自分と一緒にいることなんて、自分との子どもなんて望んでないくせに。
「……レイプされて、子どもできて…更にその相手にはお情けで『結婚してやる』なんて言われて、それが不満じゃなかったら、頭おかしいぜ」
「…レイプ? 俺が、お前にしたことはレイプだって言うのか?」
澄也の眼が、険悪になる。翼は睨み返す。
「レイプだろ。初めからそうだった」
「乱暴にしたことは一度もない」
「そういう問題かよ! 心には乱暴してんだよ、わかんねぇのか、クソ蜘蛛!」
「お前は抵抗しなかった」
「したよ、でもお前に勝てるわけねえだろ!」
澄也の眼が一瞬、見開く。
「抵抗する力があったら、俺には抱かれなかったって言うのか?」
「当たり前だ、てめえだって同じだろ、俺を抱いたのはいかもの食いだって、自分で言ってたじゃねぇか!」
澄也が舌を打つ。その足が突然振りあがり、トイレの壁を打った。ものすごい音がして、澄也の爪先は壁にめり込む。タイルが割れ、石灰がパラパラ…ッと散った。
「そうだな、シジミチョウが珍しかったから抱いただけだ。お前じゃなくてもよかった、暇つぶしになれば」
ズキン、と心臓に痛みが走る。
眼の前が、急に暗くなった気がした。
「俺じゃなくても…? じゃあ、何で何度も、抱いたんだよ?」
「性モザイクだと知っていれば抱かなかった」
吐き捨てるように、澄也が言った。
「本当に偶然の妊娠なのか? 狙ったんじゃないのか?」
「…どういう意味だよ」
「俺の地位と財産をアテにして、わざと妊娠するように……」
はあ?
……こいつ、何言ってんの。
足先から地面がなくなって、真っ暗な虚空にぽつんと立っているような気持ちだった。
急に、自分の命が軽くなったように感じた。
(何でそんなこと、俺が?)
「…俺は、そんなに虫けらかよ?」
澄也は顔を背けている。
翼の唇は、震えた。
「あんたは俺のこと、シジミチョウとしてしか、見ない…」
「お前だろう、それは」
顔を背けたまま、澄也が翼の言葉を遮る。
「俺がハイクラスじゃなければ、抱かれなかったんだろうが…」
「あんただって」
俺がシジミチョウで、暇つぶしになるから抱いたって、言ったじゃないか。
「シジミチョウは、嫌いだって言ってたろ」
「ああ、嫌いだ。だから、レイプしたんだろう」
「……あんたって」
ぽつりと落とした言葉に、澄也が顔をあげる。
「俺のこと、ほんとにどうでも…いいんだな。ほんとに、俺のこと、嫌いなんだ……」
「……俺を嫌ってるのは、お前のほうだ」
翼は嗤った。おかしいのは、自分だ。こんなみじめな思いをしていても、澄也が嫌いになれない。
(バカみてぇ…)
こうして自分は、許し続けるだろう。澄也といて、傷つけられても、きっと。
ようやく、分かった気がする。
澄也が、翼との間に横たわる階級の壁を超えてくれることはない。けして。
泣く気も、責める気も湧かない。こんな自分が、おかしいだけ。
「俺、もう疲れたんで…寮に戻ります」
翼は立ち上がった。問うように見つめてくる真耶に、翼は微笑んだ。
「ご迷惑おかけしました」
歩き出すとよろめいた。
不意に伸びてきた腕は澄也のものだ。支えられた瞬間、ぞくりと嫌なものが背を走る。翼は思わず、澄也を押しのけていた。
「触るな」
「…一人で、歩けないだろうが」
「あんたの手は要らない」
声が上ずって、かすれた。
「もう要らない。俺は、もう、あんたは要らない」
のろのろと澄也を見上げる。澄也の琥珀の眼が、迷うように揺れていた。
(どうせ…口を開けば蔑むだけだろ…)
澄也の言葉を待ちたくもなくて、翼は手を払ってトイレを出る。後から追いかけてきた央太が、翼の腕をとって引き止めた。
「翼、澄也先輩、ほんとは翼のこと好きなはずだよ、戻って、ちゃんと話そうよ」
心がぽっかり空洞になったようで、央太の言葉が届かない。翼は力なく笑った。
「もういいって、聞いただろ。先輩、俺のこと暇つぶしだって」
「そんなわけないよ。澄也先輩にも、きっと思うところがあって、あんなこと」
「いい。俺、あの人のこと嫌いだから」
嘘だ。
嫌いになれたらいいとは、思うけれど。
(帰ろ…)
最後まで残していた選択を、翼は選んだ。
(実家に帰るしかない…、帰って、病院に行って、それから…)
それからのことは、何も浮かばなかった。分かっているのはただ一つ、こんな状態で家に帰れば、もう二度と学園には戻してもらえないだろうということ、それだけ。
廊下に本鈴が響いた。薄っすらと聞こえていた騒がしい生徒達の声が止む。翼は央太の腕を払って、教室へ促した。
部屋に戻ってから、翼は荷物の整理をした。
スポーツバッグに衣服と日用品を詰め込み、教科書や参考書はまとめてデスクの上に置いた。ベッドの布団をたたみ、残ったものを捨てると部屋の中はガランとした。
残したリングノートを広げ、翼は迷わず一行目に、『兜先輩、真耶先輩へ』と書き出す。
『先輩方、色々心配かけて、迷惑かけて、ごめんなさい。先輩たちがいてくれたので、学園生活は楽しかったし、頑張れました。ありがとうございます。
早めに実家へ戻ります。寮の手続きとか、ちゃんとせずにすいません。また連絡します』
少し考えて、つけたす。
『真耶先輩のこと母親みたいに、兜先輩は兄貴みたいに感じてました。失礼だったらすいません。
でも、本当にありがとうございました』
書き終えた紙をノートから切り離し、きれいにたたんで兜と真耶の名前を書いた。もう一枚ページを破ると、今度は『央太へ』と書く。
『突然出てってごめんな。
ちょっと疲れたし、病院にも行かなきゃいけねーから、実家に戻ってくるだけ。心配すんな。
央太が友達だから、すごく助かってる。いつもありがとな。
また連絡するから、それまで元気でいろよ』
あんまり泣くなよ、と付け足して折りたたむ。
二通の手紙を机に置いて少し迷った後、翼はもう一枚、紙を切り離した。
『澄也先輩』
俺が、ロウクラスと結婚かよ……
名前を書いたとたん、耳の裏に返る澄也の声。苦い気持ちが胸の内に広がる。
『澄也先輩
俺と、無理に結婚することはありません。
子どもは、病院に行って、自分でどうするか考えます。
先輩には何も求めませんから、安心してください』
ペンを置き二つに折ったけれど、結局、破いて捨ててしまった。
(…伝えたいのは、こんなことじゃない…)
だからと言って何を伝えたいのか、翼には思い浮かばない。
寮を出た戸外、太陽は南に差しかかっていた。
ドゥーベ寮から正門への道に差し掛かると、若い葉を揺らす銀杏が陽光を浴びて眩しく、道端に墨のような濃い影を落としている。遠く離れた校庭から、時折歓声のようなものが聞こえる。
空は抜けるほど青く、高い。
校舎の向こうに、白々とあがる校旗が上空の風にあおられてひるがえっているのが見えた。
(まるで夢みたいだ……)
学園で過ごした日々も、記憶の端に聞こえる、澄也の声の柔かさも。
現実とは違う異世界に、一人だけぽつんと迷い込んでしまったようなさみしさが、翼の背を襲う。
実家に帰って、病院に行ってそれから……
あの小さな、狭い団地の片隅に戻るのかもしれない。
(こんな結末の為だったのか…?)
両親を押し切ってまで、平和で退屈な日々から抜け出してきたのは、こんな結末のためだったのだろうか。
力強い澄也の一言に、勇気をもらった。
希望をもらった。
自分でも何かできるかと、選んだ人生を生き抜いて自分を誇りたいと思った――はずだった。
自由になりたい。
突き刺すように思ったのだ。小さな世界から、自分を縛っている「性モザイク」の足かせから、命の短さの檻から、両親の愛という手かせからも自由になりたかった。
でも実際は、性モザイクであることが、体の弱さが、シジミチョウであることさえもが、翼を縛った。足をとられ手をとられて、何度もつまづいて、今、逃げようとしている。
風が吹いて、翼の頬で横髪がぱたぱたと乾いた音をたてた。
白く立ち上がる入道雲の向こうで、ジェット機が飛んでいく低い音が聞こえた。