十五
都内の大病院に搬送された翼は、一週間面会謝絶が敷かれた。毒が抜け切って意識が戻ったのは四日後のことだった。
「つばさぁー!」
「翼くんっ」
「シジミちゃ〜ん」
央太と真耶、兜の三人が連れ立って訪れてくれたのは、面会が許された初日の、昼だ。
翼は病棟のはずれにある個室で寝台を起し、雑誌を見ていた。入ってくるなり央太はもう泣いており、翼の膝の上でわっと泣き伏す。
「心配したんだよぉぉ、無事でよかったよぉぉ」
「央太、翼くんは病み上がりなんだよ、泣いたらダメじゃないか」
そう言ってとりなす真耶の目元も、赤い。
「…心配かけてごめんな、央太。先輩たちも、ありがとうございます」
「もう、あんな淋しい置手紙はなしだからね」
「何はともあれ、無事で何より」
三人の顔を見たら、翼の胸の奥がほっと明るくなった。眼が覚めてからずっとなくなっていた現実感が、急に戻ってくる。
「翼くんに、渡すものがあるんだ」
真耶は手に持っていた白い紙袋を差し出した。何だろうと思って受け取り、中を見て翼はあっと声をあげた。
「俺の、薬…」
失くしたと思っていた、性ホルモンをコントロールする薬が、大量に入っている。
「シルベールの部屋から出てきたんだ。騎士団のサー・鎌野が退団して、教えてくれた。彼、翼くんのこと心配しててね」
「シルベールったら、シジミちゃんをぎゃふんと言わせたくて、盗んだみたいだよ」
兜が肩をすくめる。
「安心して。二度としないように、シルベール含め騎士団全員みっちり刺しておいたから」
その時の怒りを思い出したように、真耶の眼にぎらりと凶暴な色が宿った。何を刺したのかは怖くて訊けず、翼はとりあえずお礼を言った。
「澄也、来てないの?」
きょろきょろと病室を見回して兜が訊ね、真耶が隣でチッと舌打ちする。
「ちょっとは反省したかと思ったのに…、お見舞いにも来ないなんてどういうつもりなんだろうね、あの男!」
「澄也なら三時過ぎには来るわよぉ」
扉口から入ってきたのは、長身の看護師だ。襟元には婦長のバッジ。長い髪を優美に巻いて、ナースキャップをかぶった彼女は、澄也と一緒に翼を助けてくれた一人だった。
「美登里さん、いらしたんですか」
「真耶くん、いつ見ても美人ね!」
驚く真耶に、美登里はバチン、とウィンクした。
「わぁっ、きれいな人……翼の担当看護師さん? 真耶兄様、知り合いなの?」
央太の無邪気な言葉に、真耶が困ったような顔で翼を振り向く。兜はにやあっと笑い、央太の顔を覗きこんだ。
「央ちゃん。こちらは赤尾美登里さん。澄也のお母さん」
「おかあさん……? えっ! お母さん!?」
えええーっと央太の叫ぶ声が病室にこだまし、真耶が慌てて央太の口を塞ぐ。
(気持ちは、すげえ分かる)
たはは、と翼は苦笑した。
身長175センチ、抜群のプロポーションを誇る赤尾美登里の美貌は、とても四十路半ばとは思えない若さだ。
「賑やかだな。兜くん、真耶くん、久しぶりだね」
美登里の後ろには、背の高いロマンスグレーの壮年が立っている。スーツの上に清潔な白衣を羽織り、きれいに口ひげを揃えた彼は、この病院の院長。そして、
「澄也先輩のお父さんだよ」
誰? と眼を丸めている央太に耳打ちする。央太の丸い眼はますます丸くなった。
「あれ? でも、澄也先輩のお母さん、苗字は赤尾なの?」
「離婚してるのよぉ、私達。もう十年以上も前に。ねっ」
「今は良き仕事仲間、そして良きライバルさ」
澄也の両親は顔を合わせて笑みを交わす。仲のいい兄妹のような雰囲気だ。実際に、この二人は従兄弟同士らしい。
美登里が翼の脈をとり、澄也の父が二、三質問する間、おとなしくしていた央太だったが、翼のベッド脇に飾られた花に吸い寄せられて匂いを嗅ぎはじめた。
「すごい量のお花だね、翼。部屋中いい匂〜い、美味しそ〜う」
翼の個室には七つもの花瓶が置いてある。ひまわりや白薔薇が色鮮やかに部屋の片隅を彩り、甘い匂いをたてている。
「毎日届いてたの? 一体誰から?」
訊かれたとたん、翼は頬にかあっと血が上るのを感じた。兜がニヤニヤ笑いながら、身を乗り出す。
「もしかして、澄也?」
「はあっ?」
ぎょっと声をあげたのは真耶だ。
「あ、た、り。ちょっと面白くない? あの澄也が毎日お花届けてたなんて! 澄也がお花よ。お、は、な!」
翼のかわりに答えた美登里が弾かれたように笑い出し、つられて兜も腹を抱えた。二人の大笑いの中で、真耶は真っ青な顔で
「…なんか気持ち悪いもの想像しちゃった……」
央太だけは眼をキラキラ輝かせている。
「すご〜い、翼ッ、愛されてるぅ〜」
「ばか、そんなんじゃねーって…」
「どんな顔で選んでるか考えたら、もう面白くって面白くって」
「きっと『翼にはひまわりが似合う、これにするか…』とか言ってんでしょうね! 真面目に! 可愛いーっ」
翼の否定する声も、美登里と兜のバカ笑いに消されてしまう。病院にとっては、なんとも迷惑な見舞い客と看護師だろう。
「ちょっとちょっと、美登里さん、兜くん。外まで声が響いてたよ…」
個室に、花を抱えた中年男性が入ってくる。小柄で、穏やかな顔。周りをホッとさせる温かな空気を漂わせている。美登里と一緒に、翼を助けてくれた人だった。
「ダーリンっ、今朝ぶりね、会いたかったわ〜」
とたんに抱きつこうとした美登里を、院長が押しのける。
「赤尾、久しぶりじゃないか、ずっと会えなくて淋しかったんだぞ」
「二日前に飲んだばかりだろ、七雲」
赤尾と呼ばれた男性は、呆れたようにため息をついた。
「お久しぶりです、理事長」
真耶と兜がぺこりと頭をさげ、一人だけ事態の分からない央太が、眼を白黒させている。
「理事長? 理事長って、星北の? 澄也先輩の親戚だっていう?」
「央ちゃん、赤尾さんはうちの学園で最初に入学したシジミチョウの人だよ。今はうちの理事長で、美登里さんの再婚相手。で、澄也のお父さんとは」
「親友だよ」
そこだけは、院長がかっさらって付け足す。
「あたしとは夫婦よ」
勝ち誇ったように胸を反らす美登里に、赤尾だけが困ったように微笑んでいる。真耶がため息をつき、兜が含み笑いし、央太は「えーーーっ」と叫んだ。
(初めて聞いた日は、俺も、叫んだ)
翼は思わず苦笑した。
陶也がセックス相手を連れ込む常宿にしていた高級ホテルに、美登里と赤尾が駆けつけたのは、澄也に頼まれて翼探しを手伝っていたから、らしい。
『びっくりしたわよぉ、あたしのことも赤尾のことも大嫌いなあの子が、頭下げるんだもの』
眼が覚めた日に、美登里からはそう聞いた。大事にされてるわねぇと美登里に言われて嬉しかった反面、まだ一度も澄也の口から気持ちを聞いていない。だから、本当にそうなのか自信はなかった。
「ほらほら、お見舞いは長居しないのが原則よ」
美登里に促され、院長も央太達も病室を出る。一人だけ残された赤尾は、翼の脇机に花束を置いた。
「これ以上、花は要らなかったかもねぇ」
赤尾の笑顔は、四十路後半の男とは思えない可愛らしさがある。美登里よりもずっと小さな体で、赤毛に、平凡なスーツを着ている。
「今日、澄也くん来るの? 妊娠検査の結果、出るんでしょ?」
「あ、はい。夕方には聞けるって…」
翼の心臓がどきんと鳴る。赤尾は椅子をひいてベッドの横に座った。
「君の修学の件だけど、心配しないでね。性モザイクでも、君の戸籍は男だからうちにいてくれていい。でも妊娠してたら、産んでから落ち着いた頃に入学しなおしておいで」
翼はパッと顔をあげて、赤尾を見つめた。子どもができていたら産むか産まないか、翼には決められなかった。けれど、陶也に襲われたときに守らなきゃと思った。きっと自分は産むだろう。
(そうしたら、俺、学校は辞めなきゃ……)
きゅう、と掛け布団を握る。
「……俺、自分で自分の人生を選びたいと思って、星北学園に来ました。理事長にも、憧れてた。なのに、辞めるかもしれない…」
「そんなにひどい話じゃないさ」
赤尾は明るい声で、翼の言葉を拾い上げた。
「人生に予測もつかないことはつきものだ。その度にもう一度選びなおしていけばいい。未来は、きっとこうするんだという自分の意志が連れてくるんだ」
応援してるよと、赤尾は言葉をくくった。
不思議な気持ちだった。心のどこかでずっとあてにしていた「シジミチョウ」の一人に励まされていることが。
赤尾が帰って一人になると、翼はベッドにもぐりこんだ。久々に大勢の人と話して、思ったよりもずっと疲れがきた。
眼を閉じてうとうとしながら、胸にかかっていた不安が晴れていく気がした。
誰のせいでもない、自分が選んでここにいると思ったほうが、ずっと気持ちは楽になる。
(それはきっと、どんな今でも、自分で変えていける証拠だから……)
窓の外ではつがいのスズメが木にとまり、チイチイとさえずりあっていた。空調の音が微かに響く個室で、翼はいつしか寝息をたててた。
夢を見た。団地の一室で、今より少し幼い翼が母親と話している。
『翼、本当に行くの?』
母は目に涙を溜め、父は黙って酒を飲んでいる。テレビからは、能天気なバラエティ番組が流れてくる。
思い出した――これは、星北学園に発つ前夜。
もう変えられないと知りながら、それでも翼を案じて引き止める母の肩を安心させるように撫でた。
『泣くなよ、母さん。俺は大丈夫だから』
『翼、ごめんね』
うつむいた母が、はらはらと涙をこぼす。こんなに痩せて、小さかったろうか、母は。目元に薄っすらと寄る母の皺。翼は胸を掴まれた気がして黙り込む。
『丈夫に産んであげられなくて、ごめんね……』
『母さん、俺、不幸じゃないぜ』
膝の上で震えている母の手に、自分の手を重ねた。
『幸せって、自分の選んだ人生を生き抜くことなんだ。何があるからとか、何がないからとかで、幸せは決まらないって、教えてくれた人が、あの学園にいるんだ』
不幸じゃない、翼はもう一度繰り返す。
母が顔をあげる。めいっぱいの笑顔で、翼はうなずいた。
『俺、その人に会いたいんだ』
誰かに頭を撫でられて、翼は眼を覚ました。
「……せんぱい?」
薄く開けた視界に、印象的な琥珀の眼と鼻筋の通った端整な顔立ちが見える。
「…起こしたか?」
甘いバリトンが、耳にしみる。胸の奥から、急に切ない気持ちがあふれだして、翼は戸惑った。
ほんの一週間会わなかっただけなのに、もう何年も会っていなかったような気がした。言葉にして伝えたいことはたくさんあるはずなのに、どれも形にならない。
黙っていると、澄也が立ち上がって窓を開けた。
「少し換気したほうがいい、冷房だけだと、体が冷えきるからな」
薄く開けた窓から、ムンと熱のこもった風が吹き込んできた。草いきれと土の匂いがまじった、夏の風だ。病院の植木にとまって鳴く油蝉の声がジーッジーッと聞こえてくる。
ふと澄也は、「陶也の処分だが……」と切り出した。
「退学になった。今は本家の奥に謹慎させられている。…もうお前には手出しさせないから、安心してほしい」
窓辺に立ったままの澄也の背中を、翼は見つめた。
『澄也を許してなんて、言えないわ』
意識が戻った時、美登里に言われたことが耳に返る。
『だけど、あの子を憎むなら、あたしのことも一緒に憎んでほしいの。澄也がああなったのは、あたしのせいなのよ』
自己満足だけれど、と美登里は弱弱しく微笑んだ。
「…先輩と、陶也先輩はすごく仲が良かったんだろ?」
「両親が離婚して、家にはいつも一人だった。親父は仕事が忙しかったし、いきなり出てった母親のことは…どうしてそうなったのか分からなかった、俺は、捨てられたと思っていた」
澄也が翼の寝台に腰掛ける。
「同じように親が留守がちの陶也と、自然、一緒にいることが多くなった。まるで双子みたいに……知らないうちに、あいつの価値観を自分のもののように感じていた。だから…お前を傷つけることになった」
苦いものを噛んだような表情になり、澄也は眼を伏せた。
「どう謝れば、お前に許してもらえるか分からない」
ひどいことをされたとは思う。怒りたい気持ちもあるのに、心のどこかでもう許している自分がいる。見つめる澄也の横顔が、あんまりさみしく映るからだろうか。
寝台の上に上半身を起こし、寄り添うように澄也の肩に額を押しつける。澄也の体が、ぴくんと揺れた。
「……先輩がシジミチョウを嫌ってるのって、赤尾さんが美登里さんと結婚したから?」
「…再婚は、構わない。ただ……広い家の中で、ずっと一人きりで過ごしてきて、それにも慣れた頃にいきなり親父と、美登里に呼ばれた。赤尾を紹介されて、大人だけ三人で屈託もなく、楽しそうにしている。単純に言えば、いじけたんだろう、俺は…」
一人だけ取り残されたさみしさ。
澄也が十五の頃だったという。今より幼かった澄也の気持ちがどんなものだったか、翼は分かるような気がした。
長い孤独な夜を耐えてきたことに、澄也は失望したに違いない。母親にも父親にも甘えることに慣れていない。
長い退屈を、あえて澄也が選んできたのは、傷つかないための処方だったのかもしれないと、ふと思う。
「それに今は…シジミチョウは、嫌いじゃない」
小さな声で、澄也が言葉をつぐ。
部屋の扉がノックされ、翼が澄也から離れると同時にでっぷりと太った老人医師が入ってきた。
「横山先生」
澄也が立ち上がって礼をする。産婦人科医師だ。
「おう、澄也くん。来とったんか」
横山医師は翼の脇の椅子に腰を下ろした。澄也は窓を閉める。
「…一人で聞けるか? 不安なら、美登里を呼んでくるぞ」
澄也の眼が、心配そうに揺れた。気遣うような口ぶりが優しくて、翼は驚いた。
「平気。ありがとな、先輩」
「じゃあ、頼みます」
横山に頭をさげ、澄也が出て行くのと同時に、翼はぎゅっと拳をかためた。
「…流れて、なかったですか?」
「それ以前に、妊娠なんかしとるわけないだろ」
ばっさりと横山に切り捨てられ、翼は「へっ」と素っ頓狂な声を出した。
してるわけ、ない?
「子ども、いない、んですか?」
「いない」
きっぱりと言われた瞬間、体から力がぬけていく。薄っぺらい紙切れになった気持ちで、翼は呆然とした。
「青木くんね、ホルモンの調整薬飲んどっただろ。あれ、飲まなくなってどれくらいになる?」
「…え、二ヶ月とか、そこらかな…」
「それじゃあ無理だわ。体調が悪かったのも、食欲がなかったのも、単に今まで抑えてた女性ホルモンが増えて体がびっくりしただけ。あんた、妊娠したいならまず、膣を作らんと」
「ち、ちつ…」
「あんたの体ンなかに、小ッさい膣はあるからの、調整剤を変えて、女性ホルモン増やして、一時的に妊娠できる体にせんと、妊娠できんよ。妊娠の予定は?」
「に、にんしんのよてい?」
翼は耳慣れない単語にどぎまぎした。
「とりあえず、結婚は高校卒業した後だろ? そしたらあと二年半か。高校三年生になったあたりから準備したらちょうどいいわ。大体、体が自然に変わるのに二年かかるからの」
「え、な、何の話ですか」
横山はきょとんとした。
「澄也くんと結婚するんだろ? 院長が言うとったぞ、澄也くんに報告されたって」
「え、えぇ?」
「子ども産んだらホルモンも安定して、少し寿命も延びるだろ。まあ頑張んなさい」
横山は翼の背をぽん、と叩いてでっぷり太った腹を揺らしながら出て行った。
取り残された翼は整理がつかないまま、ぼうっとしていた。
(子ども…いなかったんだ)
下腹を、そっと押さえる。拍子抜けしたような、ほっとしたような気持ちと一緒に、すうっと気持ちが落ちていくのを感じた。
(なんだ……じゃあ、結婚なんて話も、なくなるよなぁ)
澄也は翼に、責任がなくなる。心のどこかでそれを惜しんでいる自分がいて、翼は嫌な気持ちになった。
「…翼、横山先生、帰ったようだが…」
扉を開けて、澄也が遠慮がちに声をかけてきた。その表情に、緊張がある。
「…子ども、できてねぇって」
言いながら、小さく笑ってしまう。
「…なんかすごい勘違いしちまったよな、皆して」
「できてなかった……のか?」
澄也は複雑な表情をしていた。その顔からは、何を思っているのか推し量れない。
「先輩、結婚まで考えてくれたのにさ。ごめんなーっ」
澄也の本心が怖くて、翼はわざと明るく笑い飛ばした。
「いや…、お前が謝ることじゃない」
静かに返され、翼の喉が詰まる。胸が、きゅうっと痛んだ。
ジッジッジッ……
神経質な蝉の声が、窓の向こうから聞こえていた。冷房の風が、翼のうなじをひんやりと通る。
(……やっぱり、妊娠してなきゃ、結婚とか、なし?)
助けに来てくれた時、澄也は自分を好きなのかもしれないと思った。けれど今になれば、あれは激しい勘違いとしか思えない。
――性モザイクだと知っていたら抱かなかった。
澄也に言われた言葉が、鋭い痛みと一緒に蘇る。これでもう、完全に切れてしまうかもしれない。翼は俯き、両手でぎゅっと布団を握った。
「寒いのか?」
傍に寄り添い、澄也が顔を覗いてきた。翼の手をそっと握り、指先を確かめる。体温の近さに、翼の心臓がどきんと跳ねる。
「冷えてるな、しばらく、冷房をきろうか」
壁のコントロールをいじり、澄也は冷房を切ってくれた。
端整な横顔を見ていたら、切なさが胸に迫ってくる。痛いほど、澄也の熱を感じたい。
「先輩」
我知らず、声が出ていた。
「子どもできてなくて……ほっとしたか?」
驚いたように澄也が振り返った。視線をまともに受けられなくて、翼はうつむいていた。
先輩は、ちょっとくらい、俺と結婚したかった?
一秒の沈黙が永遠だった。ほっとしたと言われたら、胸が裂ける。
「青木さん、検温の時間ですよー」
不意に担当看護師が一人、部屋に入ってきた。
「あ、はい。すいません」
渡された体温計を、脇に挟んだ。看護師は二十代前半で若く、すっきりした細身の美人だ。
「澄也さん、いらしてたんですねぇ。お久しぶりです」
翼が体温を測っている間に、彼女は頬を薄っすらと赤らめて澄也に挨拶をした。とたん、翼の心臓はずきりと痛む。
(だってここ、澄也先輩ン家の病院だし。知り合いくらいいたっておかしくねぇし)
そう思うのに、心臓はずくずくと嫌な痛みでいっぱいになる。
「よかったら、後でナースセンターにも顔出してくださいな。婦長が美味しいケーキ買ってきてくれて」
「どうも」
検温が終わると、看護師は機嫌よく出て行った。
「熱、下がったみたいでよかったな」
「女だったら、ああいう人が先輩の好み?」
口をついて出た一言に、驚いたのは翼のほうだった。
「何だって?」
訝しげに眉を寄せた澄也に、翼はかあっと顔を赤くさせた。勢いよく布団の中にもぐりこむ。
「もー行っていいぜっ、看護師さんも呼んでたじゃねぇか。俺、もう寝るから」
「おい、どうしたんだ、いきなり」
(どうしたもこうしたもあるか、バカッ)
布団の中に丸まって、翼は叫びたいのを抑えこむ。急にみじめさが、じわじわとあふれてくる。
どうして澄也は、残念だと言ってくれないのだろう。
(残念じゃないからだろ?)
「翼……どうしたんだ? どこか痛いのか?」
頭のすぐ上から、声が聞こえてくる。
「何もねぇよ。行けば? ケーキあるんだろ?」
「ケーキが食べたくて、拗ねてるのか?」
「なわけねーだろっ」
的外れな澄也の反応に、イライラする。
「別に好みじゃない」
「はあ?」
何が。
「布団から顔を出せ」
「嫌だよ、俺眠いんだから」
「もう、俺と顔を合わすのも嫌なのか?」
「嫌がってるのはそっち……」
突然、布団がはぎとられた。翼は振り返り、何をするんだと怒鳴ろうとした。その瞬間、眼の前に迫った澄也の顔に動きが止まる。
「好きだ」
たった一言が、稲妻だ。
声も、怒りも、一息に吸い込まれる。
「今更……勝手な言い分だと分かっている」
甘いバリトンが、聞いたこともないほどかすれていた。
「お前が、好きだ。本当は、触れることも許されないかもしれない、でも」
澄也の唇が、わなないた。見たこともないほど、思いつめた表情。
「お前が他の誰かを選んだら――きっと俺は、むりやりお前を奪う……」
うなだれ、澄也は翼に額を合わせてきた。甘い、レッドニータランチュラの香りが鼻腔いっぱいに広がる。
「お前を縛り付けたい、俺の糸で。俺の想いで、言葉で……からめとって、巣の中にしまいこみたい。…俺は、最低だ」
(嘘だろ?)
これは夢だ。都合のいい夢。心臓が、ドキドキと鳴る。
「先輩、俺を嫌いだって、言ってたよな…?」
澄也は焦ったように、翼の両手を握り締める。
「あれは嘘だ。階級に囚われて、認められなくて、心にもないことばかり言った…」
澄也は苦しそうに眉を寄せた。
「初めて抱いた時、お前は、俺に謝りに来た。…恵まれている苦しさもあると言われて、俺は――自分でも、そんなふうに思ったことがなかったのに、慰められた気がした。多分、あの時から、ずっとお前が好きだった……」
(あの時? あれからずっと?)
信じられなくて、翼はゆるゆると首を横に振る。
「けど…他の人も抱いてたし…」
「お前を忘れたかった。忘れられなかったが」
「他のヤツに可愛いって言ってた、俺には、言わなかったのに」
「…本気の相手に、簡単に言えるか」
拗ねたように澄也が返す。
うずくように心が潤み、気持ちがあふれて、水のようにこぼれる。握られている手首から、じんと熱が広がっていく。
「俺も、好きです」
言葉は勝手に口をついた。
澄也は一瞬、何を聞いたか分からないようにぽかんと口を開けていた。数秒経って、弾かれたように立ち上がる。
嘘みたいだった。あの澄也の顔が、みるみる赤く染まっていく。
(ああ)
湯のような温もりが、胸いっぱいにあふれ出す。
やっとたどりつけたと思う。自分の本心に。
まだ信じられないという顔で、ぽかんと突っ立っている澄也と、ほんの少し離れている距離がもどかしかった。ベッドの上からじっと見つめて、訊く。
「……先輩、キスしてくんねーの?」
澄也は赤い顔のまま口許を手でおさえ、空を仰ぐ。
「嫌なのか?」
淋しくなって訊くと、顔を手で覆い、澄也がうめく。耳まで真っ赤だ。
「いや…ちょっと」
「ちょっとって、何だよ」
「…可愛かったから」
今度は翼のほうが赤くなる。可愛いって。
(喜んでどうするんだよ、男として)
と思うのに、嬉しい。嬉しすぎて、地に足がつかない気持ち。
まだ頬を火照らせたままの、澄也の顔が近づいてくる。翼は眼を閉じた。
唇に触れるだけの口付け。
顔が離れると、澄也が翼の頬を両手で包んで、まじまじと見つめる。
翼が手に手を重ねて初めて、ホッとしたように澄也が笑った。笑いかけられたのは、初めてだ。微笑むと澄也の目尻は深くなり、柔らかな空気が胸に染みる。
「……いつか、本当に子作り、しような」
ささやかれ、おかしいような幸せなような気持ちになりながら、微笑む。男なのに。
澄也の子どもなら、産んでもいいと思う自分が笑えてくる。
ベッドに押し倒され、二人一緒にスプリングに沈み込みながら、もう一度唇を合わせる。温かな舌に、唇の表面をぬらりとなぞられて、翼の背がぞくんっと痺れた。
「…将来、俺は医者になってこの病院を継ぐ」
翼に額を合わせると、澄也がささやいた。
「子どもの頃から決まっていたことだ。何の目標もないから、与えられたレールに乗っかっているほうがラクだと思ってきた。でも、今は、やりたいことがある」
燃えるような琥珀の瞳と、じっと視線を合わす。
「……一生かけて、お前を生かす。もう生き飽きたというところまで、俺と一緒に…生きてほしい」
言葉が出ない。
ただ、胸の奥から急速に、痛みのような熱さが広がる。
人生が短いのだと知ってから、死はすぐそこにあると知ってから、いつも心のどこかでたった一人ぼっちだった。
死を恐れて生きることが嫌で、飛び出した小さな世界。
あの時連れ出してくれたのは澄也だ。
「…俺、先輩に」
声を出したら、限界だった。喉が焼かれ、鼻先がツンとしびれる。眼に涙が盛り上がる。
「会いたかった。ずっと……」
生まれて、生きて、死んでいくことにもし価値があるなら、誰かが自分を必要としてくれること。自分がいることで、誰かを支えていられること。
「ずっと、言いたかった。ありがとうって…そして」
澄也の首に腕を回す。
(知ってほしかった、俺っていう人間が、いること。覚えててほしかった、生きていたこと――)
「それは、俺の台詞だ」
翼の背に、澄也の腕が回る。ぎゅっと抱きしめられる。空気さえも入れないように。
「会いに来てくれて、ありがとう」
澄也の肩に瞼を押し付ける。とたんに涙が、堰を切ってあふれ出した。全身で、翼は声をあげて泣いた。
一人きりで抱え込んできたさみしさも、怖さも、全部溶け出していく。
いつまで生きられるかな。
どうやって生きていけばいいかな。
そんなことを、たった一人で悩む必要はもう、ないんだ。
いつしか夏の陽は、西の際へ沈みはじめた。窓から差し込んだ夕照が、抱き合う恋人たちの影を、淡く金色に染めていた。
終わり