十四
『翼? どうしたんだこんな時間に』
受話器の向こうから聞こえてきた父親の声に、翼は返す言葉を迷った。
両親が経営する小さな商店に、翼は駅の公衆電話から電話をかけた。星北学園の最寄り駅はさほど都心ではない。こじんまりした急行電車の通過駅に、人気は少なかった。
『こんな時間に電話なんて、
学校休んだのか?』
「う、うん、まあ…ちょっと。…母さんは?」
『配達に出てるよ。母さん、心配してたぞ、生徒会なんかやってよけいに体悪くするって…やっぱり、具合悪いのか』
いつも無口な父親が、今日は珍しくよく喋る。
(これから、帰るから)
そのたった一言が喉のところに引っかかり、翼は何も返せない。父が小さく息をつくのが、聞こえる。
『だから星北なんかに行くことは…反対だったんだが、まあ、頑張ってみなさい。生徒会なんて、すごいじゃないか』
「…父さん、俺が学園にいること、賛成なのか?」
いきなりの励ましに、翼は驚いて声をあげた。受話器の向こうで、父が困ったように笑う。
『母さんには内緒だぞ。父さんだって心配だけどな、お前が、自分で決めたことだから、応援することにしたよ』
翼は声を失った。帰る、という言葉が喉の奥で掻き消える。
青木さーん、お会計、いい?
客の声だろう、父が受話器から離れて『はい、ただいま』と返事する。
『翼、お客さんだから、またな。母さんに用だったか?』
「あ、ううん。何でもない。ちょっと声聞きたかっただけだから…またかけるよ」
わざと明るい声を出して、翼は受話器を置いた。
プラットホームに電車の滑り込む音が、駅構内にも響いてくる。
「……何やってんだ、俺」
(でも、言えねえよ。応援してくれる父さんに…、妊娠したかもしれないから、帰って、病院行くなんて…とても)
行くあてもなく、翼はのろのろと駅を出た。スポーツバッグが肩に重く、ちょっと歩くとすぐに息が切れた。
いつか兜と行った恩賜公園を過ぎ、やがて川沿いの道に出る。
幅広の川は浅く、流れもゆるい。翼は土手に下りて、腰を下ろした。川べりには葦の穂が高く、土手にはエノコログサやススキがしゃがみこんだ翼の体を隠すほど背高く生い繁っている。
日は真南を過ぎ、昼下がりが近づいていた。夏の日光に、エノコログサの穂が白く照っている。
(これから…どうしよ)
たてた膝を抱いて、翼はうなだれた。
寮にはいられない。実家には帰れない。かといって一人で病院に行く金もない。
うなだれていても、脳裏に浮かぶのは澄也のことだった。そんな自分が情けなくて、翼はぎゅっと眼を閉じた。
(どうして、忘れられねえんだよ。ひどいことばっかされてるのに)
……俺を嫌ってるのは、お前のほうだ。
ふと、耳に返ってくる澄也の声。
(そういや、何であんなこと、言ったんだろ……)
翼は疑問に思う。あの時の澄也の声は苦かった。
冷静じゃなかったから、よく考えなかったけれど、澄也の態度はおかしかった気がする。
(何で澄也先輩は、俺に産めって言ったんだろ。…慰謝料を渡すんじゃなくて、俺と結婚するって、決めたんだ?)
妙な気がした。何かが引っかかる。けれど、考えても分からない。
(意外と子煩悩なのか? それで、産めって? だったら、先輩に訊かずに堕すって決めたら、悪いのかな……)
いや、さすがにそう思うのは人が好すぎる、と翼は苦笑した。
(だけど先輩、俺が堕すって言ったら、いきなり焦って――それで、結婚するって……)
男同士で結婚する、という展開じたいに、自分が突っ込む気がわかないのがおかしい、と翼は思った。
(そうなったら、ちょっと、嬉しいからかな? 俺、心まで女になってきてんのかな…)
口の端だけでちょっと笑うと、突風が吹いて丈高いエノコログサがざわざわと揺れた。
風に乗り、濃密な甘い匂いが鼻腔に届く。
(……この匂い)
澄也の匂いだと思った。一瞬胸に満ちた感情は怒りじゃなく、嬉しさだった。
だが振り向いた先、立っている男を見て翼は硬直した。開いた喜びも、急にしぼんでいく。
「澄也だと思ったろ?」
プラチナブロンドが日に映えて、眩しい。夏物の黒い麻のブレザーに、シンプルなミリタリーパンツ。首元でドッグタグが光る。
甘いマスクでにっこりと笑う男は、陶也だ。翼の背筋、ぞっとしたものが走った。
「お前、邪魔だよ」
睫毛の隙間から覗く琥珀の虹彩に、冷たい光が宿った。逃げようとスポーツバッグを掴んで立ち上がろうとした矢先、銀色の糸が陶也の指先から飛び出し、翼の首筋を鋭く刺した。
「…あっ」
首筋が、ジンと熱く痛む。とたんに足が萎え、翼は頭から地面に倒れこんだ。
「あ、あ……」
指先が震え、感覚がなくなっていく。どっと汗が吹き出た。意識がぶれ、視界が霞む。
陶也が取り出した携帯で、何か喋っている。
「ああ、いつもの部屋を開けておけ。今回は、食い残しはきれいに消すからな。……準備してろ」
細くなった意識をたぐりよせようとする。
澄也先輩。
助けて。
そうだ、もっと早く言えばよかったと思いながら、翼は真っ暗な闇の中に引きずり込まれて意識を失った。
眼を開けた時、体は重く、頭は鈍く痛んでいた。
強烈な睡眠薬を飲んで長く眠り続けた後のように、時間の感覚がなかった。
(……ここ)
霞む視界であたりを見回そうとして、体が思うように動かないことに気づく。翼はキングサイズのベッドに、両手首を戒められてつながれていた。足も縛られ、両手足をくくりつけるのは蜘蛛の糸。口にも布を噛まされていた。
ベッドが揺れ、見ると、陶也が腰掛けたところだった。
「ずいぶん寝てたな」
甘く笑う陶也の衣服は、ヘンリーネックのカットソーに、ベージュのパンツ。最後に翼が記憶したものとは違っていた。
「一流ホテルスィートのベッドは、寝心地がいいだろ?」
中央にベッドが置かれたその部屋は、ばかのように広い。学園のようなヨーロピアン・アンティークとは違い、洗練された都会的な家具が、シンプルにまとめられた部屋。湾曲した壁に大きく開く窓からは、都心で一番目立つテレビ塔が見える。
ベッドがぐらっと揺れた。陶也が翼に覆いかぶさるように、身を乗り出したのだ。
見下ろされると、ぞくりと背筋が震えて、額に汗がにじんだ。口の中はカラカラで、痛いほどだ。体は熱っぽく火照り、眼の裏がじくじくと痛い。
口許には笑みをたたえているのに、陶也の眼は笑っていなかった。
「ここは俺のヤリ部屋。いつもは気に入ったヤツしか連れ込まないんだけどな。お前はオイタが過ぎたな、シジミちゃん」
優雅な指で、頬をなぞられた。爪の先がつうっと食い込む。
「お前のせいで、俺の澄也はいつも上の空だ。……気に入らない」
陶也の眼が細くなる。
いつの間にか、翼は小刻みに震えていた。気づいた陶也がくっと笑う。
(……こいつ、俺を、どうする気…)
陶也は最悪だよ。
吐き捨てるように言っていた、真耶の声が蘇る。
翼の緊張を引き裂くように、陶也の胸ポケットから電子音が響く。
「……もしもし、」
翼の上にかぶさったまま、陶也は携帯電話を取り出して出た。
『陶也か?』
電話から聞こえてきた、甘いバリトン。翼の肩がぴくんと揺れた。
(澄也先輩……っ)
助けて、と言いたくて身動きした瞬間、陶也が空いた片手で翼の口を抑えこんだ。
「よぉ、澄也。どうした?」
冷酷な笑みが、陶也の口許に広がる。
『お前、どこにいる』
「いつものヤリ部屋だけど? 活きのいいのを捕まえたから。あ、もう死にかけだけどな」
翼の背に、じわっと冷たい汗がにじんだ。
『…青木翼がいなくなった。昨日から…実家にもいない。朝から探しているが、見つからない』
――朝から探している。
翼は喉の奥で、こくりと息を呑んだ。
(嘘だろ…? 何で?)
どうして澄也が、自分を探してくれているんだ。
(きっと、真耶先輩とかにせっつかれて…それだけだ。でも、)
こんな状況なのに、胸の奥がじんっと温かくなる。たったそれだけのことでも、嬉しい。澄也が自分を心配してくれている気がして、嬉しい。
「…アオキツバサって、あれか? シジミチョウ?」
笑みを消し、陶也がつまらなさそうに訊ね返した。
『お前…何かしたか』
「まさか。何で俺がシジミチョウにちょっかいかけるんだ? それとも、かける理由があるって?」
『……』
電話の向こうで沈黙する澄也から、責めるような気配が伝わってくる。陶也は鼻で嗤った。
「…澄也……、俺たち、いつも一緒だったよな。まるで双子みたいにさ。お前の気持ちを分かるのは俺だけ。俺の気持ちを分かるのもお前だけ。そうだろ?」
『陶也、俺はお前じゃない。お前も、俺じゃない』
「淋しいこと言うんだな。…でもそうかもな、いかもの食いをするだけなら分かるさ、よっぽど退屈だったんだろうって。それがシジミチョウを孕ませるなんてな……笑えないぜ、澄也」
言葉とは裏腹に、陶也は声をたてて嗤った。
『お前、翼に、何か……』
「澄也さぁ…俺に言ったよな? もうあのシジミチョウに興味はないって。だから俺にも手を出すなって。俺はそれ、信じて呑んでやったんだぜ? なのに、そう言った後に孕ませるほど抱くなんて…なぁ、俺は、約束破りが嫌いだぜ……?」
『翼を返せ。あいつに何かしたら、殺す』
電話の奥でうなる声がした。
(先輩…何で?)
どうして、怒ってくれるのか。
(俺のこと、嫌ってんじゃねぇの……?)
要らないと言った。手を払って。あの瞬間、澄也の琥珀の眼が揺れていた。
「分家のお前が、本家の俺を?」
『ホワイトニーとレッドニーは同格だ』
「ははっ、ぞくぞくするぜ、澄也。生まれて初めて、スリルを感じてる。でもな、」
陶也は嗤いをおさめると、ぞっとするほど冷たい視線で、翼を突き刺した。
「もう遅い」
まだ何か言おうとした澄也の声を聞かずに、陶也は携帯を切った。携帯は三秒後に再び鳴りはじめる。陶也は二つ折りの機体を、片手で握りつぶす。反対側に折られた携帯が、バキィッと音たてて割れ、床に転がった。
「あーあ…壊れちまった。変えたばっかりだったのに」
陶也は肩をすくめ、翼の口から手をどける。陶也は優しい手つきで、翼の猿轡をはずした。自由になった唇は、両端が布で擦れてひりついていた。
「俺はいつも、澄也の食ったものは必ず後で食べてたんだ。あいつが、飽きたって言わなきゃ…お前も食ってたけどな。澄也があんまり必死だから、従ってやったんだぜ?」
「……どういう、意味」
喉に力がなく、声は上ずっていた。陶也が呆れたように肩をすくめる。
「分からないか? 澄也はお前にベタ惚れなんだよ。俺からお前を遠ざけたくて、自分まで離れるなんて、涙ぐましい恋心だよな?」
嘘だ。
翼は弱弱しく首を横に振る。
消えろ、シジミチョウ。
言った時の澄也の顔は、息苦しそうだった。虫けらと翼を呼んで、不味いと罵って、だけど――
(そんなわけ、ねえって……)
翼。
抱く時、かすれた声で呼ぶ澄也の声はいつも、優しかった。耳に残るバリトンの甘さは、翼の気持ちをほどいてしまう。
嫌ってるのは、お前のほうだ……
思い出した。最後に抱かれた日、嫌いだと言ったのは翼のほうだ。澄也に大事にされないことが、辛くて口走った。
俺がハイクラスじゃなければ、抱かれなかったんだろう、
子どもができてたら、産め、
結婚してやる――
(あれが…先輩の、精一杯だとしたら……)
どくりと、心臓が脈打った。
「ハイクラス屈指のレッドニータランチュラ。飽きっぽくて、冷徹な俺の半身。それが…お前みたいなシジミチョウに惚れてるなんて、俺は、つまらない」
突然首を掴まれた。ぐっと締められ、翼は頭を仰け反らせた。
「あ…、かはっ」
「これが見えるか?」
翼の上に片手をかざす。陶也の指先から、細い針のような糸が伸びていた。銀の糸を伝い、黄色い液体がこぼれていた。
「毒だ。……ただし、媚毒みたいな甘いものじゃない。量を飲めば、死に至る。…法律で使うことは禁じられてるけどな」
にこっと笑い、陶也は翼の首筋に糸をあてた。
「大丈夫、致死量は入れないって」
――いやだ!
全身を恐怖が貫いた。翼は身をよじり、自由にならない手足をばたつかせた。首筋にひたりと当たった糸が、不意にずぶりと差し込まれる。
翼は声にならない叫びをあげた。
陶也が笑いながら飛び退く。
「うそうそ、殺す毒なんて使えるわけないだろ? ちょっと具合悪くなるだけだから!」
手足の戒めがほどける。体が一気に熱くなり、まず最初にきたのは耐え切れないほどのかゆみ。翼は無我夢中で喉をかきむしり、わけもわからず上着を脱ぐ。
不意にかゆみが、痛みに変わった。
「痛い…っ、痛い、痛い痛い、痛い……ッ」
肌が乾燥して肉ごとびりびりと裂けるような痛みが、全身を襲う。もだえる翼の背中に、陶也が飛びついてくる。
「なあ、ここに澄也の赤ん坊、いるのか?」
大きな掌が、露になった翼の腹部に張りついた。背筋を走る悪寒、翼は短く鋭く、耳鳴りを聞いた。
(殺される)
無意識だった。背に力がこもり、肩甲骨がばあっと翅が広がった。
「うわ…っ」
驚いた陶也が退き、翼は飛び上がった。
「この…、クソったれ!」
細い糸が無数に翅に絡みつく。ぐい、と引かれ力を込めて抵抗した瞬間、糸は刃のように鋭くなり、翼の翅を切り裂いた。
「うあああっ!」
鱗粉を散らしながら、翼は床に落ちた。翅がしおしおと閉じる。うつ伏せになったまま、翼は腹を両手で抱えて丸くなった。どっと吹き出た汗が玉になって顎を伝い、肩甲骨から傷ついた翅の血が流れてくる。
高熱を発したように全身が熱く、呼吸はぜいぜいと荒れていた。意識が朦朧とする。
(……もしここに、子どもがいたら)
守らなきゃ。
何か考えるより先に、はっきりとそう思った。
脳裏に浮かぶのは、まだ若い母の顔だ。高熱を出して三日間寝込んだ後、意識が戻った翼を見て、母は泣き出した。
幼い翼を胸に抱いて、泣きながらうわごとのように繰り返す。
神さま、ありがとうございます。
ありがとうございます、神さま、翼を生かしてくれて。
生かしてくれて。
目尻からあふれた涙が、ぼろぼろと頬を伝う。
(生きるのって、生まれるのって…すごいこと、なんだ)
今はっきりと思う。十五年、生かされてきたから、生きてこられた。生かしてくれたのは神さま、母さん、父さん。団地で一緒にいた子どもたちや、あまり会うこともなかったクラスメイトも、もしかしたらどこかで翼を生かしたのかもしれない。
窓から見た、自由さをうらやんだ小鳥にも、生かされてきたのかもしれない。
央太にも、真耶にも、兜にも、澄也にも――。
(生かされてきた俺が、この子を殺しちゃ、だめだ)
「なめた真似しやがって…」
ぶつぶつとつぶやきながら、陶也が近づいてくる。翼は全身で腹を隠した。
「庇ってるつもりか」
次の瞬間、背を強かに踏みつけられる。ぎりぎりと圧迫され、翼は呻いた。
「流してもらうぜ、邪魔なガキは」
「……せない」
「なんだって?」
うなった翼に、陶也が訊き返す。翼は、息を吸い込む。弱った喉に、渾身の力を込めた。
「…殺させないって言ったんだ…、憐れなクソ蜘蛛!」
「……てめぇ…」
陶也の声に険悪なものが混じる。
「もう容赦しないぜ!」
陶也が足を大きく振り上げた時だった。扉が大音をたてて開く。
「翼!」
(先輩……?)
耳に飛び込んだ声に、張りつめていた翼の全身が緩む。扉を乱暴に叩き開け、髪も服も乱したまま駆け込んできたのは、澄也だ。
「陶也…ッ、お前…!」
澄也が怒鳴り、指先から稲妻のようにほとばしった銀糸が、陶也の首に巻きつく。陶也の体は宙に浮いた。そのまま、壁に投げつけられる。
ホテルの壁は轟音をたてて円状にひび割れ、床に落ちた陶也は気を失って動かなくなった。
「青木翼くん!」
「大丈夫か!」
見知らぬ人影が駆け込んできて、翼を抱き起こした。
(…誰?)
朦朧とした視界で捕らえたのは、鼻筋の通った美女と、穏やかそうな中年男性だ。
「ひどい熱、猛毒を打たれた後だわ」
「彼は性モザイクだ、急いで救急車を呼ばないと危ない」
男性が携帯を取り出す。
「陶也、貴様、殺してやる!」
鋭い糸を弾き出す澄也を、美女が正面から抑え込んだ。
「やめなさい! もう気絶してるわ、殺したらアンタも同罪よ!」
「うるさい、翼が……死んだら、殺してやる」
「早く抱き上げてあげて」
落ちていく意識の中で、翼は澄也が近づいてくるのを見た。
(先輩……顔、ひでぇ…)
澄也は真っ青だった。翼を抱き上げる腕が、ぶるぶると震えていた。琥珀の眼から、不意にぼろりとこぼれ落ちる滴を、翼は何か不思議なものを見るように、眺めた。
「すまない……本当に、すまない」
抱き上げられ、そのまま、やんわりと抱きしめられる。首元に埋められた澄也の目から落ちる涙が、翼の肌を熱く濡らす。
澄也の甘い匂いが、鼻先に懐かしく香る。翼は、眼を閉じた。指先からも、足先からも感覚がなくなっていく。
先輩、本当は、俺のこと好きなのか…?
急速に落ちていく闇の中で、翼は澄也に訊いた。
俺は、本当は、先輩が好きなんだ。
死ぬのかもなぁと思いながら、この死に方はわりと、悪くないと翼は笑った。
笑えていたかは、分からなかったけれど。