一
春。水浅葱の空に、薄桃色の花びらが舞い上がる。桜はむせるように満開の花を咲かせている。見上げると薄紅の花が迫り、息がつまるほどだった。
「うわ、豪華…」
翼は思わず声をもらした。
『星北学園前』停留所にバスを降りてから十分、なだらかな坂を上った場所にある学園の校舎は、翼の十五年の人生で見た、一番豪華なものだった。
古い歴史を思わせるスパニッシュ・ミッション・スタイルの建築様式を取り入れた学園の建物は、どれも荘重で華やかさがある。広々した敷地内には校舎のほかに講堂、体育館やチャペル、購買棟や食堂、クラブハウスにくわえて七つの寮がある。星北学園は全寮制の男子校だ。寮にはドゥーベやメラクなど、星の名前がつけられていて、
(ダ、ダセーよな……金持ちのセンスって…)
団地育ちの一般庶民の翼には理解できないのだが、いざ入寮予定のドゥーベ寮を目の当たりにしたら、そんな感想も吹き飛んでしまった。
白亜の壁、欄干に意匠を凝らした正面玄関。半円窓の半円部分に嵌め込まれた鉄枠が、細かな文様を描いている、お城のような壮麗な建物。
うららかな春の陽射しを受けた白壁に、新緑が映えてまぶしい。
「新寮生の方はこちらに一列に並んで、手続きを行ってください」
ドゥーベ寮の上級生が誘導し、真新しい制服に身を包んだ男子学生たちが玄関先に長い列を作っていた。翼もその最後尾に並んだ。
(これがセレブの世界ってやつかよ……)
上級生は言わずもがな、一緒に並んでいる新入生でさえ大抵は、翼より背が高く、まとう雰囲気も大人っぽい。美形もごろごろしているし、何より華やかだ。
(やっぱりこの中じゃ俺、ちんちくりんだな……)
寮の正面玄関に張られた硝子窓に薄っすらと映る自分の姿を見て、翼は苦笑した。
コシのない柔らかすぎる髪が縁取る顔つきは、とりたてて特徴もない地味な風貌。もともと体は丈夫なほうじゃない。シジミチョウ科の体は子どもっぽい。まるで、肩にかけた大きなスポーツバッグに持たれているような感じだ。
受付が空いて、ようやく翼の番がきた。緊張しながら提出書類を出すと、受け取る受付員がいぶかしそうに眉を寄せた。
「君、新入生? 中等部と間違ってない?」
隣の受付員も、興味をそそられたように翼を見上げた。
「ここは高等部だけど?」
本気で心配しているような声だ。
「俺、一応、高校生なんスけど」
「えっ、そうなの?」
二人に驚かれ、内心ちょっぴり傷つく翼だ。
「君、ゴケグモ科出身? ……それにしたら地味だけど…」
「アオカミキリモドキかい? それとも、小型サソリの出身? どちらにしろ、小型種が入ってくるのは珍しいね」
「小型種にしても……君、地味だねえ」
(地味地味、小型小型うるせえなあ! つうか書類見ろよ!)
彼らが口にしたのはどれも、小型なのにハイクラスにのぼりつめている強力な種ばかりだ。
「俺は……ツバメシジミですけど」
「つばめしじみ? つばめしじみって何?」
「……ロウクラスのシジミチョウ科出身。つうか、書類に書いてんですけど」
二人の表情が一瞬固まる。会話を聞いていたらしい背後の新寮生も、じろじろと無遠慮な視線を翼に投げた。
「ぼうや、来るとこ間違ったんじゃない? ここは星北学園だけど」
受付員の言葉に、周りがくすくす笑い出した。翼はムッとする。
「お生憎と間違ってねえよ、さっさと手続きしてくんねぇ?」
「うわぁ、すごい言葉使いだね。お家は大丈夫なの? 学費ちゃんと払えるのかなあ」
ムカムカムカッ。翼はぎりりと歯を食いしばる。
「心配してもらわなくても結構でごぜえます、俺は特別奨学生枠で入ったんだからな」
「お利口なんだねぇ〜」
受付員の一人がからかうようにぴゅうっと口笛を吹いた。
「ばか、奨学生枠希望者なんてロウクラスのシジミちゃんくらいしかいないからだろう」
「あ、そーか。そういうことか。ま、頑張ってね」
(こ、こいつら、殺してえ!)
最初は親切そうだったのにロウクラスだと分かった途端、手のひらを返した上級生二人に、翼は掴みかかりたくなるのを抑えるのに必死だった。
――翼、母さん反対よ。あんな上流クラスの人ばかりの学校、苦労するだけでしょ。
星北学園を受験する前も、合格してからも母親に言われ続けた言葉が、翼の耳に返る。
たぎっていた怒りがすうっと失せていく。
そんなこと分かってる、でも、もう決めたんだよ。
そのたびに、母へ伝えた言葉。
思い返し、翼は深く深呼吸した。
「君たち、僕の前でそんな口をきくなんて随分な度胸だね」
突然かかった声に、それまでにやにやと笑っていた上級生たちが凍りついた。
「うわ……」
声のほうを振り返り、翼は思わずぽかんとした。
(すごい、美人)
薄茶色の髪を襟足まで伸ばし、上背が高く、細身の体にモデルのように制服を着こなす生徒。長い睫毛が黒い瞳を縁取り、柔かな笑みが桜色の唇に浮かんでいる。
その穏やかな笑顔に見覚えがある気がして、翼はハッとなる。
そうだ、あのテレビ。
翼がこの学園への入学を決意した番組。
あの時取材を受けて、「かつて首席で学園を卒業したベニシジミがいたんですよ」と、にこやかに話していた生徒。
(あ、あの人!)
翼の心臓が、どきんと跳ねた。
「ま、真耶さん……」
「誇り高きドゥーベの寮生が、下級生相手に生まれをからかうなんて失望したな」
「いえ、そんなわけじゃ……ただロウクラスだって言うので…」
「だからなんだって言うの?」
真耶と呼ばれた上級生の柔和な顔から微笑が消えた。途端、その黒い瞳が鋭く光り、受付員二人の顔が真っ青になった。
「彼は特別奨学生枠を自力でとった努力家だよ。それを汚い言葉で中傷するなんて、侮蔑に値するね」
美しい黒の双眸がすうっと細められ、細い体から稲妻のように凄みがほとばしる。
「あんまりおイタをするんなら……刺すよ?」
「は、はははははい、すすすすすいません!!」
「も、申し訳ございません〜〜〜ッッ!」
上級生たちはほとんど泣きそうな声で叫び、その場で受付机にひれ伏した。
「まあまあ、真耶、あんまり脅すなよ」
凍った空気に水を差したのは、見上げるほど背の高い上級生だった。男としてかなり恵まれた体格。翼は思わず息を呑んだ。
(こいつも美形だなあ…)
癖のある黒髪は日が当たると茶に透ける。眼鏡をかけているが、その奥に覗く眼はアーモンド型でちょっとつり上がっている。鼻筋が通って、日本人離れした美形だ。
「ほらほらお前ら、そろそろ交代時間だ。ここはいいから外の誘導に行っておいで」
長身の美形に言われ、受付員の二人はほっとしたようにあわてて立ち上がった。
「君は甘すぎるよ、兜」
「真耶タンが怖すぎるんだよ〜、いや、さすがスズメバチは攻撃的だなぁ」
「お言葉だけど、僕は最も穏やかなヒメスズメバチだよ。君ら甲虫は図体ばかり大きくて天敵知らずだから……」
「まあまあ、太古の歴史を人類の歴史に持ち込むのはやめにしようじゃないか、プリンセス真耶」
「君が始めたんだろう!」
兜と呼ばれた上級生が、翼の肩を抱き寄せて廊下のほうへ連れ出す。
「待ってたよ〜、君がシジミちゃんだね。可愛いなぁ。ボク、シジミを見たの初めてだよ」
「は、はあ」
「ボクは兜甲作。ヘラクレスオオカブト出身で、ここの寮長。で、こっちの怖ぁいお兄さんが…」
「怖いは余計だ。僕は副寮長で、ヒメスズメバチ出身の雀真耶だよ。青木翼くん、よろしくね」
翼に向かうと、真耶はにっこりと微笑んだ。怖かった雰囲気が消え、とたんに柔和になる。翼も思わず微笑み返した。
割り当てられた部屋への案内は、真耶がしてくれることになった。寮はまるで校舎のように広い。一階には食堂や共同風呂、トレーニングルームや図書室まであり、二階から上がそれぞれの部屋になっており、それが五階まである。一つの寮に、二百人の生徒が寝泊りしているという。
「一年生は二人一部屋、二年生から個室になるんだ。初めは不自由するだろうけど、我慢してね」
真耶は案内しながら振り返り、少し心配そうに付け足した。
「こんなこと言いたくないけど……君の出身のことで、寮内でうまくいかないこともあるかもしれない。そんな時はすぐ、相談してほしい。できるだけ対処するつもりだよ」
「あ、ありがとうございます」
(真耶先輩って……ちょっと怖いとこもあるけど、すごくいい人みたいだ)
ほっとしていた。受付の二人の態度のほうが普通なのかもしれないが、少なくとも味方がゼロというわけじゃなさそうだ。それだけで、前途が明るく思えてくる。
「真耶先輩は俺がシジミチョウでも、平気なんスね。そういう人って珍しいんですよね?」
「出身の起源種での差別なんて、ばかげているよ」
真耶は眉を寄せた。
「受験の問題にも出ただろう? 僕ら人類がどうして、節足動物との融合をはかったのか」
「生態系と文明の危機に瀕した人類が、強い生命力を持つ節足動物門と意図的に融合をはかった……」
「花丸回答だよ、さすが奨学生」
真耶はくすっと笑ったが、すぐ真面目な顔になる。
「北半球への巨大隕石の落下、その余波で二千年の氷河期を経て……生き残った人類は節足動物と融合していたんだよね。でも、本来の節足動物門には階級なんてないんだよ。階級や差別をするのは人間だけさ。それなのに、節足動物の種で差別するなんて妙だよ」
「でも、ハイクラスの人のほうが、特殊な能力を多くのこしてるから上流になったって、聞いたことありますけど…」
文明も生態系も完全に取り戻した今でも、誰もが、種に特有の能力を持っているが、翼は翅を出して飛ぶことくらいしかできない。
「知られてないだけで、生態系って持ちつ持たれつだからね、ロウクラスはハイクラスをやりこめる技をちゃんと持ってるんだよ」
真耶は茶目っ気たっぷりに、翼にウィンクして見せた。
「それに、うちの歴代首席者の中にはベニシジミがいたこともあるんだ。君には頑張ってほしい」
「お、俺、それテレビで見ました。先輩が取材受けてるとこも!」
胸がかあっと熱くなり、翼は思わず身を乗り出した。
「ああ、去年放映したやつだね。あれ、見たんだ」
「はい、あの番組見て、この学校に来たいと思って……」
「本当? うれしいよ、そう言ってもらえたら」
狭い団地の一室。
小さなテレビに映ったきらびやかな世界。
あの時の気持ちがよみがえってくる。
「あの番組に出てた、メキシカンレッドニーの人も、この学園にいるんですよね?」
「え?」
「俺、あの人の言葉に勇気付けられて……勉強頑張れたんです。一度、会って話してみたいって思ってるんですけど…」
真耶は知り合いだろうか。知っていたら、会わせてくれないかと、翼はちょっと期待した。だが真耶は、一瞬考え込むような顔をする。
「レッドニーは確かにいるけど……翼くんは、タランチュラと接したことってある?」
「いえ、ないですけど…」
スズメバチとだって、真耶が初めてだ。
「じゃあ知らないと思うけど……もし彼を見かけても、近寄らないほうがいいよ。タランチュラって種はね…生粋のハンターだから。つかまったら、食べられちゃうからね」
(た、食べられる?)
翼はごくりと息を飲んだ。
「い、いくらタランチュラだからって、見境なく食べたり…」
「するんだよ。基本的に来るもの拒まずの種族なんだ。もっともやつらの毒は猛毒だから、近づくのはよっぽど勇気のある人間だけだけど。きみはシジミチョウだし、やめたほうがいい」
「シジミチョウだと危ないんスか?」
「お互いにとってね。小型チョウの独特な香りは、捕食者が病みつきになってしまうことがあるんだ」
「? ? は、はあ…」
意味が分からない。だがとにかく近づいたら食べられるということだ。
(食べられるって…)
「頭からバリバリ……?」
「頭からといわず唇もお尻も君の大事なとこも」
「だ、大事なとこ〜?」
「きれいなまま卒業して、可愛い女の子に捧げるんだよ。僕も協力してあげるからっ、ねっ」
やけに熱っぽく、真耶は翼の両手を握り締めた。
「そのレッドニーの人に近寄ったら、俺も食べられちゃうんですか?」
真耶はにっこり笑い、ダメ押しのように頷いた。
「そうだよ、だからね、この寮の三階の右端の部屋にはぜえええったい、ぜえええったい、近寄らないで、ね?」
翼の部屋は二階の五号室だったが、近づくちょっと前から何か変な音が聞こえていた。
びええええええ、と聞こえる。
何だろうと顔をしかめていると、真耶がため息をついた。
「君の同室者ね……いい子なんだけどちょっと変わってるから。気をつけてね」
真耶が五号室の扉を開けた瞬間、突然黄色いものが入り口めがけて突進してきた。真耶の胸に黄色いものが飛び込む。
「うえええええええっ」
翼は一瞬たじろぐ。廊下にまで聞こえていた音の正体だ。
「…央太、いい加減にしなさい」
真耶がこめかみをひくりとひくつかせながら胸のものをひっぺがした。
「お、おおお、お家に帰るう!」
黄色いのは、泣いている少年の髪の毛だった。
さらさらの金髪に、虹彩の薄い茶色の眼。白磁の肌。美少年だ。背は真耶よりは頭一つ低く、翼より少し高い。
その美少年が、鼻水をたらし眼を真っ赤にして大泣きしていた。
「お家なんか帰れるわけないだろう、君はもう高校生なんだよ?」
「やだよ、こんなとこで暮らすの! ママンのケーキもないし、ぼくのお気に入りの青い毛布もないんだよ? ぼくはこんなとこ来たくなかったのに、パパンが無理矢理入れたんだからっ」
(マ、ママン…? パパパパパン?)
高校生にもなってママン、パパンかよ!
(つ、ツッコミてぇーーーっ)
ぐずぐずと泣いている少年は、既に荷物らしきものも持っている。
「お父様は、君のことが心配でここに入学を促されたんだ。将来君はお父様の会社を継ぐ立場だろう。そんなに甘ったれでどうするんだい?」
「ま、真耶兄様の意地悪―――っ」
(ま、まやにいさま? よりによって、にいさまかよ、オイッ)
「ぼ、ぼくあんな会社要らないもん、ぼくは将来お菓子の家を作るのが夢なんだからぁあっ」
「作ればいいじゃないか。パティシエになるにも勉学は必要だよ」
「やだやだ、お家に帰って家庭教師つけてもらうもんっ、毎日ママンと一緒にいるんだぁああ」
(う、うぜえ!)
おとなしく聞いていた翼だが、突然我慢の緒がキレた。
「おい、お前男だろーがっ、それ以上泣くな、タコスケ!」
泣いていた央太の表情が、一瞬止まった。ゆっくりと翼を振り返り、眼を丸くする。
「タ……タコ?」
「男のくせにベソベソベソベソ、お前がこんなとこで帰ったら、ママンが一番悲しむぞ。お前のことが好きだから、パパンはここにお前をいれてくれたんだろーがッ」
「そ、そんなことないもんっ、ママンもパパンも、ぼくが邪魔だから…だから…」
央太の目に、再び涙が盛り上がってくる。翼のこめかみが、イラっとする。
「泣くなつってんだろ! こらえろ!」
びくっとして、央太の涙が引っ込んだ。
「子どもを邪魔に思うような親がいるか! お前のママンはお前にメシをくれなかったことがあるか? パパンはお前を殴ったり蹴ったりしたことがあるのかよ?」
「あ、あるわないだろ! ママンいっつも美味しいご飯を作ってくれたし、ケーキやクッキーだって……それにパパンは、お仕事は忙しかったけど、お休みの日はいつも遊んでくれたし」
「ほらみろ。大事にされてるだろ」
翼はおかしくなった。泣いている央太が、団地にいた頃よく遊んであげていた子どもたちと変わらないように見えたからだ。
体が強くない翼は、団地から出られない日が多かった。同級生と遊ぶより、小さな子を面倒みていたことのほうが多い。
思わず手を伸ばして、自分より高い位置にある央太の目尻をぬぐってやる。
「どんな親だって、子どもを食べさせてくれて、愛してくれる。それで十分だろ」
ふと、翼の胸に両親の心配そうな顔がよぎる。
最後まで、この学園への入学を反対していた父と母。
胸の奥が、キリリと痛む。
「お前ももう高校生なら、今度はしてもらった分恩返しする番じゃないのかよ? 夏休みまで頑張って成長して、ぼくこんなに強くなったよ、頑張ったよ、ママンパパンありがとうって、言ってやれよ」
央太がぱちぱちと眼をしばたく。
「い、言ったらどうなるかなあ?」
「お前みたいな息子を持ったこと、誇りに思ってくれるさ」
央太の頬がばら色に染まった。
「央太、彼は青木翼くん。君の同室者だよ」
すかさず真耶が紹介すると、央太は泣いていたカラスもどこへやら、ぱあっと笑った。
「本当? 君が同室者だったら、ぼく、ここにいる!」
いきなり抱きつかれ、翼は驚いた。可愛い見た目に反して、央太の力はとんでもなく強い。ぎゅうぎゅうと抱きしめられて息ができない。
「おい、おま、ちょ…はな…」
「ぼくは白木央太! ウスキシロチョウだよ!」
ウスキシロチョウは黄色の翅を持つシロチョウ科の蝶だ。だから金髪なのか……と思いながら、翼は央太の腕のなかでもがいた。
真耶はくすくすと笑っている。
「いきなり懐かれちゃったね」
嫌われるよりはいいけど……。
やっとこさ顔だけは央太の腕の上に出して息を吸い込みながら、翼はこの学園、わかんねぇ……と思った。
央太は子犬のような眼でうるうると翼を見つめて、
「翼、さみしいから毛布のかわりに、ぼくと一緒に寝てくれる?」
「寝ねえよ!」
翼の怒号が廊下いっぱいに響いた。