二
「翼とおんなじクラスメイト♪ で嬉しいなあ〜♪」
隣で央太が調子っぱずれな歌を歌っている。
(元気いいなあ…こいつ)
かたや翼はぐったり疲れた表情で、『本日のランチ』をテーブルの上に置いたところだった。
星北学園の食堂は三つあり、そのうち最も広いのがここ『キュイジーヌ・オリオン』。ゆうに高さ五メートルはあるだろう高い天井、片壁はすべて天井間近まで届くガラス窓で申し分のない採光。広々した面積に白いテーブルと椅子がずらりと並んでいる。
ランチの内容はサラダに季節の素材を使ったスープ、肉料理か魚料理かを一品カウンターで選び、デザートやパンがついて、七百円。
(学食って普通五百円以下だろ! しかもキュイジーヌ・オリオンて何だよ? もうツッコむ気もわかねー……)
ヴィヴァルディの『春』が流れる優雅な食堂で、翼は一人ため息をついた。
今日は初日だから食堂でランチを買うにしても、今後は財布の事情を考えて何か対策をたてないとなー、と考える。
学費と寮費は奨学金から出るが、生活費の大半は家からの仕送りに頼っている。一銭も無駄遣いできない翼だ。
「うわーい、豚ヒレ肉のブレゼだあ。ヘルシーだねえ、翼」
「…茹で豚の野菜乗せでいいじゃねぇか、ブル…って何だよ…」
はやくも金持ちの単語に食傷気味の翼だ。
(納豆や木綿豆腐が恋しいぜ……)
「あれっ、翼、なにそれ」
央太が好奇心丸出しの顔で、翼の手元を見つめてきた。何の変哲もない白いカプセル錠剤が三つ、翼の掌に乗っている。
「カルシウム。背、伸ばすの」
「え〜、僕も伸ばしたいぃ」
ぱくっと口に含み、水で飲み下すと央太が羨ましそうな顔になる。
「…おい、あれじゃないか、今年入ったシジミチョウ」
「うわ、本当に地味なんだね」
食堂のあちこちから視線を感じ、翼はナイフとフォークをとめた。失笑が聞こえる。
またか、と脱力する。
オリエンテーリング中の教室でも廊下でも、聞こえよがしの噂と失笑を買いつづけた。教室で自己紹介した時など、一瞬、場が凍ったほどだ。さすがに疲れた。上級生も新入生も関係なくこちらを見ている。翼は吐息する。
(ま、人の噂も七十五日って言うもんな)
「な、なんかやな雰囲気だね……?」
央太がおろおろとあたりを伺っているが、翼はかまわず、茹でた豚肉にフォークを突き刺した。
「どーでもいいよ。人のことなんか気にしてても、時間の無駄だ」
「つ、翼って強いよね…」
「ていうより、俺には時間がないんだよ」
央太が眼をぱちりとしばたいた。
「え? それってどういう……」
「それよりさ、央太って真耶先輩ともとから知り合いなのか? 親しそうだったよな」
話題を変えたが、央太は気にしなかったようだ。女の子みたいに小さくパンをちぎり、スープにひたしながら翼にうなずいてみせる。
「僕、小等部からの持ち上がりなんだ。入寮は高校からだけど……真耶兄様とはずっと通学バスが一緒だったんだ」
央太はほうっとため息をついた。
「バスでよくカマキリやトノサマバッタにいじめられてた僕を、真耶兄様がいつも助けてくれて……」
「お前、小指たてて食うのやめたほうがいいんじゃね?」
「真耶兄様の毒針にやられた連中は病院送りに……」
「物騒な話だな、おい」
翼はぞっとする。
蜂の多くは爪の先や髪の先端に毒針を隠しているが、スズメバチの毒は猛毒だ。彼らは数種類の毒を使い分けるけれど、使用が許されるのは正当防衛の場合のみ。
「でも、よく僕も病院送りに……」
「何でだよ!」
「真耶兄様は甘えん坊嫌いなんだ。僕の甘ったれを直すためにって、よく特別特訓をされたから……」
「お前、それでよく真耶先輩に懐いてるな……」
昨日、受付員に見せた真耶のどす黒い空気を思い出して、翼はごくりと息を呑んだ。
「小等部からいるんだったら、この学校にいるメキシカンレッドニー・タランチュラのこと、何か知らないか?」
央太がびっくりしたように翼を振り返った。
真耶には近づくなと釘を刺されている翼だけれど、彼を目標にして、彼の言葉に勇気をもらってここまできたのだ。ちょっと調べるくらいはいいだろうと思う。
「それって、七雲澄也さんのこと? 翼、澄也さんのことなんて興味あるの?」
「知ってるのかっ?」
身を乗り出すと、央太はなぜか赤くなってもじもじしながら眼をそらした。
「知ってる…けどぉ……翼、やめたほうがいいよぉ、あの人はぁ」
「何で? 真耶先輩にも近づくなって言われたけど、タランチュラってそんな危ないのかよ? そりゃ本当に虫だったら分かるけどさ、一応俺たち、人間だろ。無闇に襲ったり食べたりするか?」
「するんだよぉ…タランチュラは狩り蜘蛛だよ? それにさ、彼らの誘引フェロモンってすごいっていうか……尋常じゃないから」
「入院減るもん? 何だよそれ」
翼は眼をしばたいた。
「えー…そんなの、恥ずかしくって説明できないよう。中学の保健体育で習ったでしょ……?」
「知らねーよ、俺、中学ほとんど行けなかったもん」
央太が眼を見開き、翼は(しまった)と思う。
(体が弱かったから、行かせてもらえなかったんだよ)
なんて言ったら、どうして? 何の病気? 今は大丈夫なの? と訊かれるに決まっている。
訊かれれば訊かれるほど、嘘を重ねなきゃならない。
翼は央太が口を開く前に、早口でまくしたてた。
「うちの中学、風邪とインフルエンザが毎年何回も流行ってて、学級閉鎖がずーっと続いてたんだよ」
「……風邪とインフルエンザで、学級閉鎖…?」
央太が眉を寄せ、翼をじいっと見つめてきた。
(やべ、さすがにバレバレか?)
思わず眼をそらしそうになったとき、ブラウントパーズのようなきれいな眼を潤ませて、央太は「かわいそう」と呟いた。
「でもとにかく、澄也さんは異常だから近づかないほうがいいよぉ。昔ベッコウバチの先輩が、澄也さんを逆に食べようとしたことがあるんだ」
「ベッコウバチって……タランチュラの鷹?」
ベッコウバチは巨大なハチで、タランチュラの鷹という名前で呼ばれている。
卵を蜘蛛に産みつける習性を持ち、孵った幼虫は蜘蛛の体を食べて育つという。二千年の氷河期の中で、この強力なハチもヒトとうまく融合した。さすがに、ベッコウバチ種の人間が蜘蛛種の人間に卵を産みつけるなんてことはないけれど、その優劣関係は大抵、ベッコウバチ種の勝ちだと言われる。
「それで……勝ったのは?」
「なんと澄也先輩。レッドニーの毒を飲まされて、ベッコウバチのほうが返り討ちに遭ったんだよ。あんまり誘引フェロモンが強すぎるから、真耶兄様も頭抱えちゃって……普通タランチュラは網を張らないけど、真耶兄様はむりやり澄也さんに張らせたくらい」
「巣ぅ? 何のためにだよ」
「んもう〜、翼ってばどうしてそんなに初心なのぉ〜」
央太は真っ赤になってじたばたした。わけが分からず、翼は眉を寄せる。
「巣にかかったら、食べちゃっていい、って言うじゃないかぁ。逆にかからないのはだめ、ってことにしたの。真耶兄様が。澄也さんの巣って、澄也さんの部屋に張らせてるみたいだし、それだとほら、よっぽど自信がないと、かかれないでしょ?」
「自信って、味にか? わざわざ食べられにいくって、相当な物好きしかいないんじゃねぇの」
(食べるったって、さすがに命まではとられないんだろうけどさ…)
なんだろう。太古の虫だった頃の記憶のなせる技なんだろうか。
タランチュラは捕まえた獲物の腕でもかじって楽しむのかな、と翼は見当はずれのことを考えていた。
「もう、翼はお子ちゃまなんだなぁ。危険な男のほうがゾクゾクするってやつだよぉ」
「お前、なんか気持ち悪いぞ……」
頬を染める央太を、思わず半眼で見る。
(でも今聞いた話だと、真耶先輩、やっぱりあの人のことよく知ってるみたいだな)
残ったデザートをぺろりとたいらげながら考えていると、ふと向かいの席にプレートが置かれた。
「や〜あお姫様たち、二人で仲良く食事かい?」
「もう終わっちゃったみたいだね」
兜と真耶だった。二人はこれからのようだ。手付かずのランチが、プレートの上でほかほかと湯気をあげている。
「先輩たちはこれからですか? 遅いすね」
「僕らは生徒会があったからね」
真耶がにこやかに応える。
「寮長、副寮長もしながら、生徒会もやってるんですか?」
ひえ〜、と翼は思った。
「やってみれば何とかなるものだよ。僕は書記だし。大変なのは兜だよね。兜は生徒会長と寮長の兼任なんだ」
「我が校のかわい子ちゃんたちのことを思えば、なんてことはないのさ」
兜は細身の眼鏡をキラリと光らせ、ワハハと笑った。
(そういえば政治家には、カブトムシ種が多いんだっけ)
天敵知らずというか何というか、硬い殻と大きな体に守られ、他の虫が縄張り争奪を行っていても自分だけは一番いい場所を独占し、ゆーっくり樹液を堪能しているというカブトムシを種に持つ人は、どっかりと落ち着いていて王者の風格がある。
「カブト様だ……カブト様、いつ見てもお素敵……」
「隣の真耶様もいつにもましてお綺麗だなあ……」
翼に向けられていたものとは全然違う視線が、兜と真耶に集まっている。ひそひそ声にため息とばら色の響きがまじる。
その視線と声が、一瞬ぴりっと緊張をはらんだ。
「おい、真耶。俺の部屋の鍵はどうした?」
翼のすぐ横に、骨ばった、大きな手が突かれた。
ぎょっとしたように、真耶の顔が強張る。
突然甘い匂いが、翼の鼻腔をくらりと過ぎった。
「ちょっと、また失くしたの? 僕は君の鍵係じゃないよ」
「誰が失くすか。盗まれたんだ。俺に文句を言うくらいなら、巣にかかる意気地もないくせに鍵だけは持っていくドアホウどもに文句を言え」
艶のあるバリトン。
耳を通って、心臓を貫き、腰のあたりまで響いてくる声。
「知らないよ、君のいろごと事情に首を突っ込むのは真っ平だ。反吐が出るね」
イライラしながら、真耶はポケットを探っている。兜がにやにやと笑い、翼のすぐ横にある体温へ話しかける。
「澄也クン、ベッコウバチのかわい子ちゃんが、最近お前が相手してくれないからって嘆いてたぞ」
ふん、とバリトンが鼻で笑った。
「大して面白みもないくせに、俺の巣にかかるほうが悪い。三度抱けば十分だ。気に入ったならお前にやるぞ」
「ちょっと、やめてくれる。食事中にそんな話」
本気で気分を害したように、真耶が会話を遮る。ポケットから銀色にきらめく鍵を取り出して差し出すと、翼のすぐ近くに置かれていた手が、その鍵を受け取った。
「澄也、近いうちに部屋の鍵取り替えてもらうよ」
「勝手にしろ」
離れていく、体温と匂い。
心臓が割れそうだった。
突然何かに背押されたように、翼は立ち上がっていた。
「す、澄也先輩!」
叫んでいた。
食堂が一瞬、凍りつく。真耶が眼を瞠り、兜がにんまりと笑い、央太が口許を押さえた。
背が高い。兜ほどもある。
広い肩幅と背。男らしく引き締まった体躯。足は長い。
赤みがかった黒髪。振り返った双眸が、琥珀にきらめく。甘いのに、どこか鋭い、美貌。小さく開いた唇からさえ漏れる、色気。
七雲澄也は、気だるげに眼を細めた。
「あの、俺、去年先輩が出てる番組見ました、そこで……先輩の言葉に勇気づけられて、この学園に入って」
十五年の人生で、これほど必死になったことは、多分ない。
心臓がばくばくしていた。
自由になりたい。
狭い部屋の中でそう思いながら、なれるはずないと諦めていた自分。「満足できる人生を自分で切り開く」ことが、本当の幸せなんだと言われて、突き動かされた。
あの気持ちが蘇ってくる。
「俺、この学園に入れたら……先輩に、お礼…」
「お前、シジミチョウか?」
澄也に問われて、翼は一瞬ひるんだ。
「澄也、彼はうちの寮に新しく入ってくれたツバメシジミの翼くんだよ、特別奨学生枠で――」
真耶が説明に、割って入る。澄也はみなまで聞かずに、琥珀の眼を鋭く細め、翼を睨みつける。
「俺がこの世で最も嫌いなものがシジミチョウだ。覚えておけ」
翼の舌が、からからに乾いていく。
呆気にとられ、ぽかんと口が開く。
澄也が背を向けてその場を去った瞬間、緊張していた場の空気がとけて、失笑が漏れた。
シジミチョウが澄也様にお言葉をかけるなんてねえー
翼には周囲の囁きは、たいしたダメージにもならなかったけれど、席につくと央太が心配そうに顔を覗いてきた。
「つ、翼、気にすることないよぉ……」
グサッ、ぐしゃぐしゃぐしゃ!
「なんなんだい、あの態度! むかつく!」
眼の前で真耶が、豚肉を切り刻みながらうなった。
「翼くん、ああいうヤツなんだよ、絶対にもう近づかないほうがいいよ、澄也なんて図体とアソコが大きいだけのただの子どもだからねっ、今度僕がピュピュッと刺し殺しておいてあげるから!」
「先輩、殺しちゃだめですって」
ヒートアップしてきた真耶に、翼は思わず苦笑した。
グラスの水をぼんやり喉に流し込み、それから、この学園を受けようと決めた時からずっと、ずっとずっと、七雲澄也に会えたら伝えようと思っていたことの半分も、伝えられていないことに気づいた。たった一言の、ありがとうさえも。
(なんか俺、勘違い、してたみたいだ……)
ふう、とため息をつく。央太がおろおろしているのに、微笑みかけてみせる。
「大丈夫だって。ま、こんなもんだよな」
心の奥にさざなみがたっているけれど、これだって、そのうち落ち着くさと翼は思った。
自分の道を自分で選びたいと思ったあの日から、繰り返し思い出していた澄也の言葉、その眼差しの強さ。
頭の中でリピートし続けるうちに、ものすごく近くなった気でいたのかもしれない。
でもそれは、自分の一方的な考えで。
だけど。
(シジミチョウが嫌いだから、俺も嫌いっていうのは、ねえよな)
恵まれている自分の立場を、ただの境遇だと言い捨てた澄也なら、そんな理由で自分を疎むわけがないと思っていた。
(俺自身のこと、見てもらえると思ってたな――)
いつの間にか予鈴が鳴り、午後の授業に向かうため、大半の生徒が席を立ち始めていた。