三
「つ〜ばさっ、ねえねえ、共同風呂行こうよぉ」
二人のスペースを区切るカーテンから顔を出し、央太が声をかけてきた。デスクの上にガイダンスでもらった資料を広げていた翼は、首を傾げて振り返った。
「風呂って……部屋にもついてるだろ?」
「そうだけどさ、共同のお風呂って温泉みたいに広くて気持ちいいらしいよぉ」
語尾にハートマークをつけた感じで微笑み、央太は翼のスペースにぴょんっと入ってきた。
二人一部屋とは言っても、真ん中に二段ベッドが置かれ、それぞれ相手のスペースは見えないようになっている。ベッドから余った場所には、ちゃんとカーテンも吊るされて、プライバシーは完全に守られた作りだ。
どうやらそこそこのお坊ちゃま育ちらしい央太は部屋が狭いと嘆いていたが、もっとずっと狭い部屋で育った翼には十分すぎる広さだ。この部屋にはトイレと一体になったユニットバスもついているが、寮の一階には巨大な共同風呂があり、屋内風呂だけじゃなく、露天風呂まで完備しているというから驚きだ。
「お風呂に入ってさぁ、いやなことぜ〜んぶ流しちゃおうよっ、ね」
にっこり笑う央太が、昼間、澄也に無視されたり周囲から白い目で見られた自分を気遣っていると知って、翼は思わず微笑んだ。
(ありがとな…、央太)
シジミチョウと見れば見下す連中が多いこの学園で、央太と同室になれたのはラッキーだったと思う。
「よしっ、じゃあ行くか。俺がお前の背中流してやるよ」
「わーい、流しっこしよっ」
央太は鼻歌混じりにお風呂セットを準備し始めた。
「でも意外だったなぁ、翼があのテレビ番組見て、星北に入学決めてたなんて」
風呂に向かう途中で、央太がしみじみと呟いた。どうやら央太も、真耶が出るからという理由で同じ番組を見ていたらしい。
「それだけじゃないけどな。ここの高校全寮制だろ? 俺、家を出たかったからさ」
「えー、ぼくはぜーったいイヤだよ、パパンやママンと離れるのっ、ほんとは家の近所の高校にいくつもりだったのにい」
「厳しくしてくれるのって、愛情だぜ」
央太はぷーっと頬を膨らませた。
「ねえ、翼のパパンとママンはどんな人たちなの? きっと翼みたいに優しいんだろうなあー」
能天気に訊いてくる央太だけれど、翼は答に詰まった。
不意に耳の裏、母親の声が返ってくる。
――翼は、何もしないでいいの。
何処にも行かないで、ずっと父さんと母さんのそばにいてね。
なんにも、しなくっていい、そのままでいいの。
黙ってしまった翼を、央太が不思議そうに見つめてくる。翼はにっこり笑い返した。
「普通だよ。普通の、親父とお袋。お前んちは、会社経営してんだろ。すごいな、親父さん」
「関係ないよぉ、ぼくはお菓子の家作るのが夢だもん。ねえ、翼は将来なにになるの?」
「まだ考え中」
肩をすくめる。
「それを探しにここに来たんだ」
「いい夢が見つかるといいねー」
央太に言われて、気持ちが晴れていくのが分かった。
小さな団地の片隅でずっとくすぶっていた翼は、学園に来たら急に何もかもうまくいくような錯覚におちいっていた自分に気づく。
実際には、両親が言ったとおり。シジミチョウだということに足をとられている感じ。
周りの反応の冷たさや、ずっと会ってみたかった澄也の意外な冷たさに、思ったよりも落ち込んでいたのかもなと、翼は思った。
(でも、へこんでる時間がもったいないぜっ、俺は自分の人生を切り拓くためにここに入学したんだもんなっ)
央太の言葉で気持ちが立ち返っていく。むくむくと元気が戻ってきた。
「ありがとな、央太」
「? うんっ」
よく分かっていない顔の央太に、翼は精一杯の感謝をこめて笑いかけた。
共同風呂の作りはドゥーベ寮の外観や内装に合わせて、洋風だった。央太いわく、ローマの大浴場がテーマらしい。スパニッシュ・スタイルとは別の、石造りの脱衣所には棚が並び、脱衣籠が備えてあるが、使っている数は少なく、共同風呂の人気はいまひとつらしかった。
「二年生になると、部屋のお風呂がユニットじゃなくなるんだって。体の大きな生徒でもゆったり入れるバスタブがつくらしいよ」
不人気の理由はそれのようだ。下手なホテルよりずっと豪華な寮の設備に、翼は嘆息を漏らした。
隣で脱いでいた央太が突然身震いしたと思うと、裸の背中からばさっと黄色い翅が広がった。
「ぶはっ」
翅が広がる時の風をまともに顔に受け、翼は眼をしばたいた。
「あ、ごめん〜。なんか、一日一回広げとかないと肩凝っちゃって」
「気持ちは分かるけどいきなり広げんなよ。そのまま風呂入る気か?」
「ううん、ちょっと体操」
下も脱ぎながら、央太は翅をひらひらと動かした。翅の付け根に黄色い斑紋が広がるウスキシロチョウの翅は愛らしい。可愛い風貌の央太にはぴったりだ。
「よ〜し、ぼく、先に入ってるねっ」
翅をにょにょにょ、と肩甲骨の裏側にしまいこむと、央太は先に浴場へ入っていった。一人になると、翼はぐっと背中に力をこめた。
「……ん、」
背筋に、ぶるっと寒気が走る。肩甲骨の裏側から、何か質量のあるものがすうっと外に向かっていく感じ。ずっと折り曲げていた四肢をぐうっと伸ばしたときのような、解放感。
翼の背に、ツバメシジミの四枚翅が広がった。瑠璃色の翅。後翅の下のほうが、うっすらと黒っぽいまだらになっているけれど、小さくて見分けがつかない。よっぽど注意しなければ分からない。
翼はほっと胸をなでた。
「薬、効いてるみたいだな……」
翅をしまいこみ、浴場へ続く扉を開けるとすぐそこで体を洗っていた央太が「あっ」と声をあげた。
「? なんだよ」
翼が近づくと、央太の顔が見る間にゆでだこになる。
央太の隣のカランに洗面器を置いて座る。
「あ、あ、なんだ、翼かぁ」
まだ赤い顔のまま、央太がほっと息をついた。
「びっくりしたあ、入ってきた一瞬だけ、翼が女の子に見えちゃったから……」
どきりとして、翼は央太を見る。情けない笑顔を浮かべた央太の顔から、やっと赤みがひいていた。
「…ばーか、俺が小さいからってバカにすんなよ」
「えー、そんなんじゃないよう。あ、翼、背中流してあげるねっ」
翼は素直に背中を向けた。央太が鼻歌混じりに洗ってくれる。ふとその手がとまり、なぜか上ずった声で、
「な、なんか翼のせ、背中って…可愛いね」
「何気色悪いこと言ってんだ、タコ」
思わずげえっとうなり、翼は央太の手からスポンジを奪い取った。
「お前も洗ってやるから背中向けろ」
嬉しそうに向けられた央太の背中だって、色が白くて細く、可愛らしい。背をこすると、翼は央太の耳の裏も洗ってやる。
「ここもちゃんと洗わなきゃだめだぞー」
央太はきゃっきゃっきゃ、とくすぐったがっていたが、ぐるっと身をねじって反撃とばかり翼の耳裏もこすってきた。
「わ、やめろって…、くすぐったい。……んっ」
こそばゆくて身を竦めたとたん、央太の動きがぴたりと止まる。
「……どした?」
色白な央太の頬に、さあっと朱色がのぼってくる。
「ご、ごごご、ごめんっ」
真っ赤になって翼から離れ、お湯をかぶると央太は逃げ出すように浴槽に飛び込んでしまった。髪を洗ってから追いかけた翼は、顔半分まで湯につかって、まだ真っ赤になっている央太の隣に腰を落ち着ける。
「お前どうしたんだよ? いきなり。のぼせたのか?」
「……」
央太の目が、うるうると潤んでいる。なぜか、翼と顔を合わせようとしない。
「翼……なんかつけてる?」
「は? 何が?」
「香水とか、そういうの」
「なんで風呂に入るのに香水なんかつけるんだっつうの」
「だ、だよねぇ…ぼくがおかしいんだよ……ね」
アハハ、と笑い飛ばした翼の答えに泣きそうな顔をして、央太はぶくぶくと湯の中に沈んだ。
風呂を出るまで央太は上の空だったけれど、翼は多分のぼせたんだろうと結論した。
部屋に戻る廊下の途中で、二人は真耶と出くわした。
「共同風呂使ったの? 気持ちよかったでしょ」
「真耶兄様、それなあに?」
真耶は大きなスクラップブックを抱えている。央太が不思議そうに訊くと、真耶はスクラップブックをぱらっと開いて見せた。
「二年生に、昆虫写真の撮影が趣味の子がいるんだよ。珍しいものが撮れたっていうから借りてきたんだ。ほら、央太のご先祖様もいるよ」
「うわー、ウスキシロチョウだ」
青空を映しこんだ水溜りに、ウスキシロチョウの集団がとまって吸水している。明るい光に、白っぽい黄の翅が透けて美しい。
「彼らは集団で吸水する癖があるんだ」
「だから央太はさみしがりなんじゃねぇの」
からかうように言うと、そうかなあ、と央太は頬を膨らませた。
「珍しい写真っていうのはね、翼くんのご先祖のツバメシジミのものだよ。ほら」
付箋がはられたページを開くと、大きく引き伸ばされた写真が貼ってあった。ヨモギの枝先にとまり、大きく翅を広げたベストショット。後翅の尾状突起が、ツバメと名のつけられた所以。
「わあ、翼のご先祖。可愛いねー」
写真を覗きこんだ央太が、訝り顔になる。
「あれ? これって、オス? メス?」
ツバメシジミのオスの表翅は、瑠璃色一色に、縁だけ黒で染められている。メスの表翅は瑠璃を地色にほとんどを黒筋が埋め、後翅の尾状突起の上に、橙色の点があるのが特徴。
「でもこれ……まざってない? 黒っぽい斑だけど…ほとんど瑠璃。でも、橙の点があるし…メス?」
「性モザイクだよ」
真耶がにこやかに答えた。
「ジナンドモルフって言ってね、雄と雌の組織が入り交じっている個体のこと。出現する確率は一万分の一とも言われていて、成虫まで育つことさえ難しいんだ」
央太が眼をしばたく。
「そんなのいるの? じゃあ、虫を起源に持ってる僕らの中にも生まれるの?」
「ごく稀にね。とはいえ、基本的にジナンドモルフは短命で長く生きられないから……」
息が乱れてないか。
体が震えてないか。
翼は自信がなくなった。眼の前が真っ暗になった気がして、一瞬顔をあげた央太が、眼をしばたいて、顔を覗きこんできた時、とっさに笑顔になることができなかった。
「どうしたの、翼。顔、真っ青だよ?」
央太の声がなぜか、遠くに聞こえた。自分の心臓の音だけが、ばくばくとうるさくなる。耳鳴りがして、翼は引きつった笑みを浮かべて首を横に振る。
「なんか湯あたりしたみてぇ。俺、先、戻るわ」
央太と真耶が何か言いかけたけれど、急いで踵を返した。口をきいたら余計、喉が渇いているのが分かった。
(ばか、俺、いくらなんでもこの態度はないだろ)
そう思うのに、逃げ出したい足は止まらない。角を曲がったらいきなり駆け足になり、眼の前に現れた階段をほとんど二段飛ばしに駆け上がった。
――どうして翼なの。
幼稚園に入ったばかりの頃、大きな病院に連れて行かれて、一日中検査をされたことがあった。
帰ってきた日の夜に、母親が台所で泣いていた。父は黙って酒を飲んでいた。
大人になれるまで生きていられるか分からないって。
もし大人になれても、そう長くは生きられないって。
どうして翼なの。どうして翼が性モザイクなんて。
(性モザイク?)
こっそり聞いていた翼にはまだ分からなかった。それが虫を起源に持つ人類にしかけられた、小さな罠だと気づいたのはずっと後。
(失敗した……俺…)
荒く息を乱しながら、翼はよろよろと廊下に出た。ちょっと走りすぎたようだ。疲れて、壁に手をつく。
(こんな場面は何度も想定して、そんで、『へ〜、そんな特殊なのってあるんだ』、とかってさ、流そうって決めてたのに)
医者からは、一か月分の薬をもらっている。きちんと飲み続ければ、その間は女の特徴は一切出ない。もともと翼は男に傾いているジナンドモルフで、性機能の一部以外、ほとんど女にはならない。
額の汗を拭い、部屋に戻ろうと辺りを見渡したところで、三階なのに気がつく。どうやら焦って、一階上まで上がってきていたらしい。
階段に戻りかけて、ふと、廊下にシャツが落ちているのに気がついた。
「…なんだこれ」
拾うと、三年生のピンが刺してある。
よく見たら、数メートル先にベルト、更に先にズボンまで落ちていて、翼はそれを拾って歩く。
「だっらしないやつだなー……」
廊下の突き当たり、角のところに靴下がかたっぽ引っかかっている。拾おうと身を屈めた時、頭上から甘い息が聞こえた。
「あふん……」
(あふん?)
「あ、ああ……ン、いい…っ」
固まった。
二人の男がもつれあっている。
薄茶の髪を振り乱し、全裸で背中を壁に押し付け、片足をあげて顎をのけぞらし、喘いでいる男。
その男の胸に舌を這わせ、ズボンから取り出している太い性器で、男の尻を突き刺している――七雲澄也。
「あっ、ああっ、澄也のおっきい…!」
揺さぶられ、薄茶髪の男が喘ぐ。
ぐちゅぐちゅと脳髄に迫る、卑猥な音。仰け反る男の性器が、澄也の腹の上で白濁した液をびゅびゅ、と飛ばしている。
「ああんっ、いいよぉっ、もっと突いてぇっ」
犯されている男は感極まったように、澄也の首にかじりつき、叫ぶ。
「あんっあんっあんっあんっ、そこいいっ」
翼は動くこともできなかった。
今まで、AV一本、まともに見たことがない。
男の太い性器が、幹のように逞しく立ち上がって肉の穴を穿っている。溢れた精液がじゅくじゅくと飛び跳ねて、あたりに独特の臭いをまきちらしている。だがそれ以上に、澄也の体から溢れる甘い香りにやられて、一歩も動けない。
まるで咽るほどの香。
淫猥な音と香りで、頭から沸騰しそうだ。
よがり狂う相手の腰を掴み、澄也が激しく性器を突き入れた。その一瞬、琥珀の双眸が翼をとらえた。
呪縛が解ける。
翼はハッと我に返り、持っていた衣服を投げ出した。
(み、見られた…!)
見ているところを、見られた。
逃げるように駆け出した瞬間、足をからませてつまずく。何かに捕まろうとした手が、ひやりと冷たいドアノブを掴んだ。
あっと思った瞬間、見知らぬ部屋に転がり込んでいた。床に倒れる衝撃はなく、かわりに何か粘っこい――ゴムのような弾力あるものに頭から突っ込んだ。
「えっ、ええっ、うわっ!」
起き上がろうとしたら、ねばねばした縄のようなものが無数に手足へからみついて、どんどん動きを封じられる。
(うそっ、な、何だよこれ!)
部屋が暗くて見えないけれど、頭の隅に、ぞっとしたものが走った。
もしかして、いや、もしかしなくったって――。
「あああーっ」
廊下から、絶叫があがる。
翼くん。
にっこり笑う真耶の姿が、脳裏をよぎった。
この寮の三階の右端の部屋にはぜえええったい、ぜえええったい、近寄らないで、ね?
ここ、三階の右端の、部屋だ……。
気がついた翼の全身が、一瞬冷たくなった。