五
頭から湯をかけられて、翼は眼を覚ました。
「…え、あ……わッ」
ぱっと顔をあげたとたん、もろにシャワーの湯を顔面に当てられ、翼はぶるぶると頭を振った。
「眼が覚めたか。じゃあ自分で入れ」
頭上から降る声。
真っ裸で白磁のバスタブに入っている翼に、澄也がシャワーの湯をかけていたのだ。
シャワーヘッドを渡され、翼はおずおずと受け取る。澄也はもう浴びた後のようで、濡れた黒髪から滴が垂れていた。
「きれいにして出ろよ」
それだけ言い置くと、澄也はさっさと浴室を出てしまう。
(……そっか、俺、気絶してたんだ)
気絶する直前何があったのか。
鉛を入れたように重くてだるい腰。
――あ、ぁん…っ、やっ、あっあっあっ、だめぇ……
朦朧とした意識の中で喘いでいた自分の声。
尻の秘孔をずぶずぶと行き来していた澄也の強張り。
思い出して、まるで脳みそをそのまま触られたようにゾクンッとした。
(ていうか、ていうか俺……ッ、俺……ッ)
血の気が上がったり下がったり、翼はシャワーヘッドを握り締めたままぶるぶる震えた。
(た、食べるって…こういうこと!? ていうか、俺、強姦されたのに…強姦されたのに…ッ)
めちゃくちゃ感じてた――――ッ!
(信じらんねーっ、俺っ、俺の短い人生でもしエッチできることがあったら…っ、か、可愛い女の子とって思ってたのに……っ、よ、よりによって男と…タランチュラと…)
いやまあ、確かに気持ちよかった。しかも優しくしてくれたし。
とちょっと考えてから、翼はその考えを振り払うようにブンブン首を振った。
(いや、それは問題じゃない。強姦だったんだぜ!)
この場合、途中から抵抗する気も失せていたことは棚にあげておく。
(だってあれ、変な毒のせいだろ? あれ、気持ち良くって、なんかもうもっとしてほしくなったっていうか……)
ぎゃーっと心の中で叫び、翼はシャワーヘッドに額を押し付ける。
(俺、アンアンアンアン……AV女優かよッ、し、信じらんねぇぇぇぇっ)
ひとしきりバスタブの中で騒いだ後、翼はよろよろと脱衣所へ出た。籠の上にバスローブが置いてある。澄也のものらしくかなり大きかったが、他に着るものもないのでとりあえずそれを借りた。
かすかに澄也の甘い香りがする、ブラックのバスローブ。
信じられないくらい滑らかな手触りで明らかに高級品だ。だぶだぶのローブの袖をまくっているうちに、落ち着いてきた翼はだんだん腹が立ってきた。
濡れた髪もろくに拭かず、勢いよく脱衣所を出る。
澄也はソファに腰掛けてワインを飲んでいた。
「この、ゴーカン魔!」
翼は澄也の前に立つと、ワイングラスを乱暴に奪いとってゴクゴクと飲み干した。
うさんくさいものを見るように自分を見上げている澄也。
空になったグラスをロウテーブルにゴン、と置くと、翼は澄也の向かいに腰を下ろしてずいっと身を乗り出した。
「アンタなあ、説明もなしにいきなりエッチってどういうことだよ? 巣に引っかかったらセックスオッケーなんて、俺は知らなかったんだからな」
澄也の眉が不機嫌に寄る。
「お前が知らなかっただけだろうが。うざい、終わったらもう出て行け」
「こういうこと続けてると、本気で好きになった人が出てきた時一番困るのはアンタだぞ! まあ俺はいいよ、犬に噛まれたことにするから」
「……はあ?」
澄也はいぶかしげな顔になった。
「何言ってるんだ……?」
「アンタがいくらタランチュラだとしても、世の中強姦は立派な犯罪なんだぞ。訴えられて、状況証拠があったらアンタは前科者なんだぞ。確かに男同士の強姦罪はまだ刑法とかには明記されてないらしいけど、もし女の子にやったら……」
「だから何の話だっ」
「道徳と護法の話に決まってんだろーがッ!」
翼はバン! とロウテーブルを叩いた。
「アンタがハイクラスで俺がロウクラスでも、合意のないセックスは強姦罪なんだよ! 俺は男だし気持ちよかったから別に訴えないけど、アンタももう高校生なんだから、こんなことしてちゃダメだろッ」
「……言いたいことはそれだけか」
澄也はイライラと腕を組んだ。こめかみがひくひくと引きつっている。
「シジミチョウにぐだぐだ言われる筋合いはない。さっさと出ていけ、空気が汚れる」
「シジミチョウシジミチョウって……」
翼はムッとした。
思わず、ため息が出る。
「先輩がこんな人だなんて思ってなかったよ」
翼を無視しようと決めたのか、澄也が煙草に手を伸ばす。
「テレビで見た時、先輩は自分で人生を拓いていく人間が本当に幸せなんだって言い切ってた。俺、先輩なら階級なんて関係なく付き合える人だって思ってたよ」
「勝手な幻想を俺に押し付けるな」
澄也は舌打ちした。
「しょせんお前みたいな下級の虫けらは、俺とはスタートラインが違う。お前はどんなにあがいたってせいぜいがこの高校に入るくらいで精一杯だろうが」
「何だよソレ、じゃあアンタは、自分で自分の人生拓いてってるわけ? 努力してるってのかよ?」
澄也は気だるげに前髪をかきあげ、じろりと翼を睨んだ。
「クソガキが、教えてやる。俺はな、選ばれてるんだ。人に踏みつけにされることが運命づけられてるお前らみたいな弱小種とは違う。俺には初めから、努力しなくてもいいだけのレールが用意されてるんだよ」
分かったら、もう出ろ、と澄也は付け足す。
煙草の紫煙が、翼の眼の前まで漂ってきてゆらっと揺れた。
……あの小さな世界で。
あの小さなテレビで。
澄也の一言を聞いたとき、急に世界が大きく思えた。
この部屋を飛び出して飛んでいけば、思い込んでいた未来とは違う結末が選び取れる気がした。
両親は反対していたし、学校の教師は苦笑するだけだった。
クラスメイトは遠巻きに見てばかにしていたけれど、翼は夜中まで机に向かって、毎日十時間以上参考書とにらめっこした。
指には書きダコができた。誰も応援してくれなかったけれど、構わない。いつも思い出していた。
澄也の強い眼差し。あの一言。
あの時感じた、熱病のような気持ち。
自由になりたい。死んだって構わない。生きていた証がほしい。
今頑張らなきゃ、絶対に後悔する。だから頑張るんだ――あの人の横に立てるくらいに、俺はなりたい。
燃えるようだったあの気持ち。
いつもいつも、胸に感じていたあの熱。
今はそこだけ、急に冷えていく気がする。
「……なんか、がっかりだな…」
ぽつん、と翼は呟いた。
「アンタはもっと……カッコイイって思ってた。せっかくそれだけ恵まれてて、何でもそろってて、何だってできるくせに…その上に胡坐かいて、努力もしなくって…退屈な、つまんない人生だな」
澄也が口から、煙草を離す。
「だけどそれでも、いい人生生きていけるんだ。恵まれてて、幸せ……ンッ!」
続けようとした声は途切れる。突然糸束が翼の顔に巻きつき、口を塞いだからだ。
糸束をはずそうともがきながら、翼は澄也を見た。
琥珀の眼差しがきつく燃えて、怒りに染まっている。
悪態をついているときでさえつまらなさそうだった澄也なのに、今は本気で怒っていると分かる。翼の背が、ぞくっと震えて、身動きできなくなった。
「出ていけ」
ロウテーブルを蹴り倒して立ち上がり、澄也が翼の襟ぐりを掴んだ。そのままずるずると引きずられ、廊下に投げ出される。
「ん、うう…」
したたかに背を打ちつけられ、起き上がれないでいると、体の上に脱がされた制服が投げつけられた。
「二度と巣にかかるな、シジミチョウみたいなゲテモノを食うのは一度で十分だ」
バンッ! と扉が閉まり、翼の口を戒めていた糸がバラバラとほどけた。
「何だよ…ヒステリックなヤツ……」
痛む背と腰をさすりながら、翼はよろよろと立ち上がった。投げられた制服を抱えて、二階の自室に向かう。一瞬、くらっとして眼の前がかすみ、壁に手をつく。
(やば……ちょっと無理したかも……)
額にじわっと汗が浮かんだ。
性モザイクの翼の体は、けして丈夫ではない。抵抗力が極端に弱いのだ。ろくに髪も拭かずにいたせいで、冷えきった体はだんだん体温をあげてきている。それに、澄也としたあの「運動」も、慣れないだけに負担だったかもしれない。
(あーもう……最悪。さっさと戻って、寝よ)
階段を一段下りるごとに、熱が一分上がってきている気がした。
二階の廊下に出ると、くまさん柄のパジャマを着た央太がおろおろと翼を捜していた。
「つばさっ、よかったーあ、どこ行ってたの!」
ほっとした顔で駆け寄ってきた央太は、そばに来ると顔色を変える。
「おー、央太…。悪かったな、心配かけて…。俺、もう寝るわ」
「……翼…そのバスローブ、どしたの…?」
央太の質問に取り合うのも面倒で、翼は答えずに部屋に戻る。
「翼…も、もも、もしかして、すすす、澄也さんとこに……そ、それに、その匂い…澄也さんの……」
泣きそうな声で央太が言っている。
翼は床に制服を投げ出して、倒れるようにベッドに入った。
(ごめんな、央太、後で話すから……)
口に出したつもりだが、言えていたか分からない。
「つ、翼が…ッ、翼が汚されちゃったあ……ッ」
熱は思うより高いらしい。頬が燃えるようで、音はすべて鈍く遠ざかっていく。そのなかで央太の泣き声を聞いた気がする。
眠りの渦にどうっと引き込まれていきながら、翼はふと思った。
(ああ、でも……先輩、優しかったっけ……)
――大丈夫だ、壊したりしない……
囁かれたバリトン。
挿入の間、ずっと翼の膝頭を撫でていた大きな手。
痛かったら、爪をたてていいと言われたっけ……。
『翼、今日は学校、お休みよ』
ランドセルを背負った翼が玄関を開けると、母親が慌てて止めにきた。
毎朝迎えに来てくれる同じ団地の同級生、安手くんと波多くんが、眉をひそめて顔を見合わせる。
『だって母さん、安手くんと波多くんは、学校行くって言ってるよ』
『翼は特別なの。雪が降ってるでしょ。風邪ひいちゃうから、今日は行かないで。安手くん、波多くん、ごめんね。翼は学校お休みだから、また明日ね、雪がとけてたら』
安手くんと波多くんが、「またか」という顔をした。
『いいよなー、翼はトクベツで』
ちぇーっ、ずる休み、と二人は唇を尖らせて、団地の階段を下りていった。
玄関は寒いからと、母は翼を居間のこたつへ急かす。
『母さん、どうして俺だけトクベツなの?』
『翼はみんなより体が弱いでしょ。……翼は、頑張らなくていいの。学校は、お天気の日だけにしましょうね』
嘘つき。
そんなこと言って、あんまり寒かったりあんまり暑かったりしたら、天気がよくても学校に行っちゃダメだって、母さんは言うじゃないか――。
朝から降り始めた雪は夕方までに止み、小学校が下校時間になる頃、団地の前の公園や道路にくっきり足型が残るほど積もった。
帰ってきたばかりの安手くんや波多くんが、公園で雪合戦を始める。
『安手くーん、波多くーん、俺も入れてー』
二人は顔をあげて翼を見る。
『翼はトクベツなんだから外出ちゃダメだろーっ』
他の子どもたちがわらわらと公園に集まってきて、安手くんも波多くんも翼のほうを見向きもしなくなった。
寒気が温かな部屋に入り込み、翼はぶるっと震えた。窓を閉めて、雪合戦に興じる近所の子どもたちを眺める。
薄っぺらい窓越しに、楽しそうな声が聞こえてくる。
何にもしなくていいの。
母さんの口癖。
翼は、何もしなくていいの。ただ、母さんのそばで生きててくれればいいのよ。
(――努力しないでもいいことが、特別……?)
胸がキリリと痛む。
テストの点数を母さんに聞かれたことがない。
運動会には出られなかった。
夏休みの宿題で一生懸命描いたポスターが入賞した時、母さんは心配そうな顔で言った。
『根をつめて描くのは、これきりにしてね。体に悪いわ』
(母さん……俺、頑張っちゃダメなの……?)
そんなトクベツ、俺、ほしくない……。
眼が覚めた時、翼は汗だくだった。布団が湿って足にからみつき、頭皮がびっしょりと濡れて前髪が額にはりついていた。喉がカラカラに渇いて、こめかみを両側からぐりぐりと押されているように頭が痛い。
視界は思ったより明るく、すぐには時間の経過が分からなかった。
(水飲みたい……でも食堂まで行かねぇと…ないや…)
間接がギシギシ痛む。特にだるい腰を動かして横寝になると、窓から差し込む光が低く、部屋の床を朱に染めているのが見えた。
(あれ……俺が寝たの、夜…だったよな)
ばら色の光は夕焼けのもの。
(あー…もしかして一日寝てた……?)
けほん、と咳をする。渇ききった喉がひりつき、まだ熱っぽい息が布団の中にこもって頬を湿らせる。眼も潤んでいて、しみるように痛い。
(――俺、ひどいこと、言ったのかな……)
思い出した。どうして、澄也の一言に勇気付けられたのか。
恵まれているかどうかはただの境遇であって幸運とは関係ない。
トクベツでいることが、辛かった。
でも誰にも、言えなかった。
贅沢な悩みだと、自慢しているのかと言われるのが、怖くて。
誰も分かってくれない苦しさを、あの時澄也にすくいあげてもらった気がした。
翼自身、見ないように、押し込めてきた苦しさを、澄也の大きな手で、あの力強い眼差しで水底から引きあげてもらったような気がした。
だから……。
翼は起き上がった。節々が痛くて、ベッドから立ち上がったら、くらりと視界が揺れた。澄也から借りたままのバスローブが、汗でじっとりと湿っている。
よろけながら廊下に出て、階段をのぼっていく。
三階、右端の部屋。
(なんか…なんだろ、誰かいる……)
澄也の部屋の前、廊下に、金髪の少年が立っているのが見えた。
(あれ……央太)
央太はぐすぐす泣いている。開け放たれたドアからは誰かの怒声が聞こえてきた。
「見損なったよ、いたいけな一年生を騙して襲うなんて!」
(この声…真耶先輩?)
間違いない。澄也の応じる声がする。
「騙すだと? あっちが勝手に俺の巣にかかったんだ」
「翼くん、熱出して寝込んでるんだよ。この責任をどうとるつもりだい、この淫乱蜘蛛!」
「まあまあ、真耶。もうやっちゃったものは仕方ないさ」
諌めている声は、どうやら兜だ。
「翼くんには気の毒だが、人類の歴史に比べたらほんの一瞬の出来事さ」
「次元が違いすぎるんだよ!」
(な、なんか大ごとに……)
ぜいぜいと息をつきながら、翼は額の汗をぬぐった。ふと顔をあげた央太が翼に気づき、ぎょっとなる。
「翼…っ、な、何で来たの!」
駆け寄ってきた央太が翼を支えてくれた。真っ赤に泣き腫らした眼で、央太はぐすっと鼻をすすった。
「お前……ごめんな、泣いてるの、俺のせい……だろ」
「だめだよ翼、も、もうこんなとこ来たら…すごい熱だよ」
言っているうちにも、央太の眼がうるうると潤んでくる。
澄也の部屋に入ると、また、あの甘い香が鼻に迫る。ソファにだらしなく腰掛けた澄也が見え、その前に兜と真耶が立っていた。
「……先輩」
声はかすれていたけれど、翼ははっきり発音できてホッとした。ぎゃーぎゃーとわめていた真耶が眼を見開いて振り返り、兜は「お?」と眼鏡をあげた。央太は翼の後ろで、おろおろしている。
澄也は、じろりと翼を見た。
「…何の用だ、シジミ。また食われたくて来たか?」
真耶のこめかみに、ぴしっと亀裂が走る。
「……刺し殺す!」
細い指先の美しい爪がぎらりと光り、ぎょぎょっと数センチ伸びる。
「きゃあ、真耶真耶ッ、殺人はダメだよ〜」
兜が後ろから真耶を羽交い絞め、真耶は腕を振り回して暴れた。
「翼くん! 今僕がこの淫乱蜘蛛を退治してあげるから、君はもう近寄っちゃ駄目だ! 冷酷で残忍で淫乱で絶倫なんだからね、この男は!」
「……真耶先輩…」
思わず、翼は苦笑した。真耶は本当に、いい人だと思う。
「…先輩、あのさ…、澄也先輩は、淫乱で絶倫なのかもしれないけど…冷酷で残忍じゃ…ないよ」
暴れていた真耶が、ぴたりと止まる。信じがたいものを見るように、翼の顔を見つめる。
「……優しかったよ。少なくとも、優しくしてくれたよ、エッチは。…俺、嫌じゃなかったよ」
「な、ななな、何言ってるの、翼くん!」
「ほんと、嫌じゃなかったんだ。だって俺……」
力が入らない笑顔で、翼は笑った。
「だって俺、一生、セックスなんて経験できないって…思ってた。それでもいいって。だから、できて良かったかもって…。ほんとは女の子としたかったけどな」
えへへ、と笑う。真耶はただぽかんと口を開け、兜はにやにや笑っていた。澄也の琥珀の瞳は、少しだけ見開かれていた。ほんの少し。
「…でも、まあ、ラッキーだったと思う。澄也先輩、上手かったし、優しかったし…いい男だし。それで俺、謝りに来たんだ」
澄也の眉が寄る。
「謝る? 何をだ。不味い体を食わせたことをか」
「それはアンタが勝手に食ったんだろ。じゃなくて…ごめんなさい」
翼はぺこりと頭を下げた。
「翼くん! こんなのに頭下げることなんかないんだからッ!」
「…俺、アンタのこと、恵まれてるのに努力してないって…退屈な人生だなんて言って、ごめんなさい」
団地の小さな部屋が世界のすべてみたいだった、ほんの数ヶ月前の、翼。
つまらなかった。退屈だった。……辛かった。
「俺は、知ってたはずなのに。……分かりにくい不幸が世の中にあるって。分かってもらえない不幸が、あるって。……アンタが恵まれてて、努力しなくてもいい生まれ方したのは…アンタのせいじゃない。俺、アンタのこと何も知らない。なのにあんなふうに言って、ごめんなさい」
別に許してほしいわけではなく、ただ謝りたかっただけだ。悪かったのは自分だと思ったから。
顔をあげると、澄也がじっと翼を凝視していた。
ああ、すっきりした。
すっきりしたから、翼は澄也に笑いかけた。澄也がきれいな眉をひそめる。
やるべきことを終えたら、ふっと緊張が切れて、後ろによろける。
「翼…っ」
央太が差し伸べてくれた手に捕まったと思うと、横から突然体をさらわれた。あっという間もなく、翼は澄也に抱き上げられていた。
「ちょ! ちょ! ちょっと! 何触ってんの? 何お姫様抱っこなんかしてんの!」
真耶が怒って地団太を踏んだが、澄也は涼しい顔をしていた。
「こんな熱で出歩くな、バカが」
頭の上から落ちてくるバリトンは、言葉ほどきつくない。信じられないほど逞しい腕、広い胸。同じ男として、憧れさえ感じてしまう力強さ。翼の体から、ふうっと力がぬけていく。
「おい、部屋に案内しろ」
「は、はいぃッ!」
澄也に言われて、央太が真っ赤な顔で背筋を伸ばす。ガチガチに緊張しまくった動作で、央太が先に歩き始めた。
「いや、なんか珍しい光景だね」
「納得できない!」
兜と真耶のやり取りが遠ざかって、翼は眼を閉じた。一気に眠気が襲ってくる。どうして澄也が運んでくれるのか、結局少しは許してくれたのか分からなかったけれど、翼はあまり気にしなかった。
「お前は……」
ふと澄也がつぶやいた。
「バカだな。本当に…、お前みたいなバカは、初めて見た」
壊したりしない。優しくする。
そう言った時と同じ、穏やかな声に聞こえる。
(ほら……やっぱこの人、ほんとは、優しいんだって……)
ベッドに下ろされ、布団をかけられる。湿ったシーツを替えろとか、パジャマを着替えさせろとか、澄也が央太に命令している声が聞こえた。央太が「はいッ、お任せください!」と張り切って答えているのがおかしくて、眠りながら翼は笑った。
「……おい、…寝たのか? ロウクラスは皆、お前みたいに体が弱いのか?」
夢うつつに、翼は首を横に振った。
違うよ、俺はちょっとトクベツなんだ……
「さっさと言え、俺はお前みたいに小さいのは、抱いたことがないんだ。趣味じゃないからな」
はあ…、いやそれ、アンタの勝手だし。
「……面倒だが、次はもう少し、気をつけてやる」
次?
次ってさあ……なに?
なんのこと?
答えを聞く前に、翼は夢も見ない深い眠りに沈み込んだ。