七
(下着…気持ち悪ィな…)
翼はエレベーターを降り、とぼとぼと北校舎を出た。
音楽室から吹奏楽の練習をするオーボエの音が聞こえ、時折空高く、金属バットで硬球を打つ突き抜けた音が混じる。
(部活……やってみたかったな)
翼はため息をついた。
入部届も部活一覧も、生徒会室に投げ出してきた。
(勉強頑張ろう。勉強、勉強、勉強…もういいや。高校三年間、それだけでもいい)
澄也のことは考えたくなかったし、考えても分からない。ハイクラス種の気持ちなんて、これっぽっちも理解できない。
いじめる為に抱かれたり、いやらしいことをされたのかと思ったらまた、泣いてしまいそうだ。悲しいというより、そんなふうにしか扱われないことへの悔しさで。
(もう、考えねぇ。あの人には近づかない。真耶先輩の忠告は正しかったってことだ)
「やあ、こんなところにいたの。随分探したんだよ?」
南校舎にさしかかった時、翼はしまったと思った。取り巻きを連れたシルベール苔山が、両手を広げて嬉しそうに駆け寄ってきたのだ。
「あー…すンません、行かなくて」
シルベールの招待状のことなど、すっかり忘れていた翼だ。
「謝らないで、ル・ベベ。今から来てくれるでしょ?」
小首を傾げ、とびきりの可愛い笑顔でシルベールが翼の顔を覗きこんでくる。翼は「うっ」とたじろいだ。
自分が出したもので下着は汚れている。こんな状態でお茶会なんて冗談じゃない。
「…すいませんけど、今日は…ちょっと、遠慮させてもらいます」
「えっ」
とたんに、シルベールの顔が青ざめる。取り巻き連中が「姫!」と叫んでおろおろしはじめた。
「そんな…君、ボクのこと嫌い……?」
ゆるく握った拳を口にあて、シルベールはぶるぶる震えながら涙をこぼす。
(えーっ、何だよこの展開!)
取り巻きは「姫!」「姫、大丈夫ですか!」と小声で応援している。まるで、自分がいじめているみたいじゃないか。
「き、君はボ、ボクが…嫌いなんだ…そ、それはボクが、ゴケグモだからかい…?」
(はあ〜?)
何だか勝手に話が進行している。
「あの、何言ってんのか分からないんですけど…」
「ボクは…君と一緒に少しでも時間を過ごしたくて…それだけなのに。君はボクを嫌ってる…なんて悲しい現実なんだろう」
「…分かった、行きます。行きますよ!」
行きゃいいんだろ!
ほとんどヤケッパチの気分だった。
「ほんとに? 嬉しい!」
承諾したとたんシルベールがぱっと明るくなり、ぎゅうっと手を握られて翼は脱力した。
(ちょっと付き合ったら帰らせてもらうぜ……)
シルベールに手をひかれて校舎の中に入りながら、翼はぐったりと肩を落とした。
南校舎の四階。南向きの一室に入って、翼はほとんど呆れ返った。
広々した部屋に、豪華な西洋風の椅子家具一式が置かれ、窓辺には翼の腰ほどもある装飾的な大花瓶に花が飾られている。壁際の小タンスの上にも、やたら装飾過多な置時計や人形が置かれていた。
「調度はどれもロココ様式でそろえたんだ。君はどうぞ、そのフォトゥーユに腰かけて、ル・ベベ」
フォトゥーユなどと言われても何のことだか分からなかったが、シルベールに指されて背や座に織生地の張られた肘掛椅子に腰かける。
シルベールは向かいの長椅子に座り、部屋の中に軽やかなクラッシック音楽が流れだす。
取り巻きの何人かが、これまた華麗な曲線を描く、高価そうな陶器の紅茶セット一式を運んできた。
「マイセン・ロココの品物なんだ。カップやソーサーに描かれているのは愛の島の情景なんだよ、ル・ベベ」
「はあ…」
甘い香りと湯気をたてるティーカップの表面には、写実でロマンチックな西洋画が描かれている。
(ていうより、さっきから何で俺のこと『ル・ベベ』って呼んでんだよ?)
いちいち訊くのも面倒で、翼はずるずると紅茶をすすった。
「あの、苔山先輩。他の皆さんは座らないんですか?」
シルベールの取り巻き連中は、周りに立っているだけで一緒にお茶を飲む気配もない。
「彼らは、ボクの騎士なんだ。騎士と姫は一緒のテーブルにはつかないものだよ」
(な、何だそれ……)
にっこり微笑んで説明するシルベールに、ちょっと寒気がした。ぞぞぞっと嫌悪感がのぼってくる。
「それにしてもすごいよね。あの七雲くんを、入学早々落としてしまうなんて……一体、どんな方法で彼に取り入ったの?」
取り入るって何だよ。
翼はカチンときたが、事を荒立てるのもばかばかしい。
「間違って巣にかかっただけです」
「巣にかかっただけ…? ほんとに? それくらいのことで、七雲くんほどの人が、シジミチョウの君を相手にするの?」
(失礼なヤツだなー……)
無邪気そうな顔できょとんとしているシルベール。単に、頭が悪くてデリカシーがないだけだろうか。
「…知りませんよ。澄也先輩に訊いてください」
「ふうん……教えたくないってわけ。そんなに、獲られるのが怖いんだね?」
(はあ?)
シルベールは相変わらずにこにこと微笑んでいる。けれどその微笑に何か暗いものを感じて、翼は急いで紅茶を飲み干した。
「すいません、俺、もう行きます」
立ち上がろうとした時、肘掛け椅子の座面に二本、巨大な鎌が落ちてきた。
薄緑色の巨大鎌。表皮が透き通り、刃の部分がギラリと光る。鎌はゴブラン織の座面を裂いて椅子に食い込み、翼を動けなくした。首だけ動かして振り返ると、サー・鎌野と呼ばれていた取り巻きの一人の腕が巨大鎌に変形している。
「……カマキリ」
背にじわりと汗が浮かび、呟きがもれる。シルベールがフフフッと笑った。
「お馬鹿さんのル・ベベ。選ばれたハイクラス種のボクが、本気で君と親睦を深めるつもりなわけ、ないでしょう?」
さっきまでのしおらしげな美少年ぷりはどこへやら、シルベールは足を組み、椅子の背にもたれて尊大に嗤った。
「白状してもらおうか。どうやって澄也に抱いてもらったのさ? 今だって……したばかりなんだろ? 匂いがプンプンしてる」
翼の頬に、かあっと血がのぼった。腹立たしいやら恥ずかしいやらで、ムカムカと怒りが湧いてくる。
「だから、俺は巣にかかっただけだって言ってるだろ! 放せよ、もう帰る!」
「バカ言うんじゃないよ! お前みたいな地味で面白みもないシィ地味チョウをあの、あの、あの、あの、あの、七雲澄也が相手にするはずがなぁいッ」
突然シルベールの態度が豹変した。立ち上がってロウテーブルを蹴り上げる。茶器が飛んで割れ、その小柄な全身から負のオーラがほとばしった。
「巣にかかるだけならば、このボクだって相手にされているはずッ、それなのにどうして美の権化であるボクが無視され、君が相手になる? おかしいじゃないか! ボクが許しても神が許すまい!」
(こ、こいつ……あぶねぇ…)
翼はゴクリ、と喉を鳴らした。
「あのさ…つまり、あんたは俺と同じように巣にかかったのに、澄也先輩にヤられなかったわけ? それで、ヤられた俺に逆恨みしてる…ってこと? それ、すげえ迷惑なんだけど……」
シルベールの眼が、ぎらっと光る。
「ボクを愚弄するとは許さないよ、青木翼! 騎士たちよ、作戦Tだ! 死にたいほどの生き恥を味合わせてやれ!」
サー・鎌野の腕が不意に通常に戻る。同時に翼の両腕が押さえられ、あっという間に長椅子に放り出された。
跳ね起きる直前に、鎌野の巨大鎌がクロスして翼の首の脇へ落ちてくる。ザシュ、ザシュ! またしてもゴブラン織の座面を裂いて、巨大鎌は翼の首を押さえ込んだ。もし少しでも体を持ち上げれば、刃の餌食になる。
(何する気だよ……)
いつの間にか他の騎士達も数人、翼の周りに集まってきている。
「にくにくにくにく憎らしい青木翼。今から、君の恥ずかしくてたまらない写真を撮るんだよ。それを学校中に張り出してやる。さすがの澄也も、そんな君の姿を見たら冷めるだろうね」
くっくっく、と嗤うシルベールが指を鳴らすと、男達が乱暴に翼の制服を脱がし始めた。
(…ちょっ…ありえねえ! 恥ずかしい写真ってそういうのかよ!)
ぞっとしたものが背筋を駆ける。手足だけでも抵抗しようとするが、体の大きな男達に数人がかりで押さえられてはたまらない。
シャツが剥がれ、ズボンに手がかかり、下着ごと下ろされそうになる。下着は汚れたままだ。
「ふふふ、すべて脱がせたらこれを着せてやる〜ッ」
興奮したシルベールの声にふと視線をずらす。
シルベールが手にしていたのは、薄緑色の作業服、トイレブラシにトイレのつまりとりスポイト、トイレ用洗剤だ。
「トイレ掃除業者の格好だッ、死にたくなるだろう?」
「…え、そんだけ? それでいいなら全然やるけど……」
思わず拍子抜けした声が漏れた。一瞬、場が沈黙する。
「やる? ……この、世にも恥ずかしい格好を、自らすすんで…!?」
信じられない、という顔でシルベールが一歩よろめいた。
「姫!」
「お気を確かに!」
「つ、強がるんじゃないよ! 青木翼!」
シャーッと猫が威嚇するように怒鳴られたが、翼は大して怖くもない。むしろ、シルベールの感覚に翼のほうが戸惑う。
(金持ちの感覚って……わかんねぇ)
「やるなら、俺自分で着るから。この鎌どけてくんねえ? それ終わったら、もう帰してくれよ……」
真っ青になったシルベールが、ぶるぶると震える。持っていた作業服やトイレブラシが床の上にバラバラと落ちた。
「作戦Tが失敗するなんて…」
「完璧な作戦だったはずなのに……」
「おいたわしや、姫…」
騎士達のつぶやきに、いちいちツッコむ気も湧かない。
「…作戦変更だ。鎌野、鎌をはずして」
シルベールの唇は、噛みしめすぎて赤く熟れていた。鎌がはずれ、ホッとして起き上がった瞬間、細い糸が目にも留まらぬスピードで翼の上半身に巻きつき、腕ごと封じ込めてしまう。
「うあっ! …あ!」
糸に力がかかり、ギリリ、と締め付けられて翼は叫んだ。澄也が翼に使っていた柔らかな糸とは種類が違う。鋼鉄のように硬く、細い。肌に食い込むと、切り刻まれそうな痛みが走る。
(忘れてた……こいつも、クモ……!)
「クモ種にはそれぞれ、いくつかの毒が授けられている。…ちなみにボクらセアカゴケグモの一番得意な毒の一つはね…神経毒さ。痺れさせるね」
シルベールは口の端を歪めて嗤った。右手の指先から、細い爪がキュルキュル…と静かに伸びていく。爪は銀色に光り、先端から、黄味がかった液体がぽたり、と垂れた。
(…やべえ)
額が、じとりと汗ばんだ。
セアカゴケグモは小さな蜘蛛だが、その毒の強さはタランチュラなど目ではないと聞く。麻痺毒などまともに受けたら、逃げ出すことは完全に不可能だ。
(どうする……どうする?)
部屋の中に視線を走らせると、窓が一つ開いていた。
(…飛んで逃げるしかない)
蝶種は飛べるといってもせいぜいが数分ほどだが、逃げることはできる。寮まで行けば、真耶に庇ってもらえるかもしれない。翼はごくりと息を飲んだ。
「おいたが過ぎたね……ル・ベベ」
「あっ、澄也先輩!」
翼が入り口のほうを見て叫んだとたん、シルベールの暗い表情が一瞬にして最初の乙女顔に戻り、爪を引っ込めて入り口を振り返る。
「違うんだよ、澄也…! これはね…」
(今だ!)
勢いよく跳ね起き、背中に力を込めた。瑠璃色の翅がばあっと広がる。大きく開閉し、一気に飛び上がる。一直線に窓めがけて飛んだ瞬間、背中に焼け付くような痛みが走った。
「う…ああ…っ」
翅が力を失い、鱗粉がパッと散った。一メートルほど浮き上がっていた翼は、そのまま床に落ちた。うつ伏せに倒れこむ。シルベールの糸は緩んだが、広げていた翅から、まだ、ぼろぼろと鱗粉が落ちてきた。
(痛い…)
じくじくと、切り刻まれたような痛みが翅に広がっていく。振り返ると、瑠璃色の前翅、その縁が切られて、鉤裂かれていた。弱弱しく翅を寝かせても、痛みはとまらない。
「ふん…おバカなル・ベベ」
鼻を鳴らすシルベールの横で、片手だけを鎌にした鎌野がニヤニヤと嗤っていた。その鎌に、瑠璃色の鱗粉がべたりとついている。
(くそ……)
この翅ではもう飛べない。翅をしまおうとした時、シルベールが翼の片翅を掴んでむりやり引っ張った。
「うああっ」
裂かれた翅に激痛が走り、翼は身を捩じった。
「…ふうん。ロウクラスのくせに、生意気な翅だね。こんな彩やかな色をまとうなんてさ……ん? お前、橙の……」
じろじろと翅を観察していたシルベールの足に、翼は渾身の力を絞ってしがみついた。
「うわっ、何するんだ! 離せ!」
シルベールの手が離れた瞬間、翅を背中にしまいこむ。裂かれた翅がしまわれると、肩甲骨の後ろから血が流れてきた。同時に鎌野に腹を蹴られて、翼は床にごろごろと転げた。
(痛い…、痛い……痛い……)
背中がじくじくと焼けるようで、翼の呼吸は乱れた。痛みに、こめかみがギリギリと締め付けられるような頭痛がする。
「毒を注ぐまでもないね。…サー・鎌野、ゲテモノ食いの趣味はないだろうけど、こいつのこと食っちゃってよ」
「不本意ですが、姫のご命令とあらば」
鎌野が鎌をしまいながら、肩をすくめた。
「忌々しいシィ地味チョウの体から、澄也の匂いがするだけでも腹が立つもの。その匂い、剥ぎ取ってやって」
「お気に召すまま」
頭の上から聞こえてくる会話に、文句を言いたい気持ちは十分あった。
けれど背中が痛くて、まともに動くこともできない。流れた血が床に広がって、背を濡らしていた。翅を切られただけだから、大した量ではないだろうけれど、元々体の強くない翼には致命的だった。
「愛撫するのも面倒だ、すぐにツッコんで、捨ててやる」
鎌野の声がすぐそばで聞こえる。霞む眼を薄っすらと開ける。胸に手を這わされ、翼はぴくんと震えた。
花蜜の匂いが溢れて、甘く広がった。
(……これ、俺のなのかな…もしかして)
「…お前、何か……何だ?」
ふと手を止めて、鎌野が変な顔をした。
「……?」
浅く息をついている翼の顔をじっと覗きこみ、鎌野は下唇を舐めた。
「……こうして見ると、そう悪くないな。妙な気分になってくる…」
(何の話だよ……)
「鎌野、何してんのっ、さっさとヤっちゃって!」
シルベールがヒステリックな叫びをあげた。
「御意、姫」
ベルトを抜かれ、ズボンと下着を膝までずりおろされた。足をあげられ、秘奥を見られる。翼はぐったりと眼を閉じた。
(だめだ……ヤられる)
鎌野がごくりと喉を鳴らす。
「意外だが…わりといいぞ、お前……掘り出し物だ…」
「…あのさ」
力の入らない喉から、弱弱しい声を出す。
「何で俺…こんなめに遭ってんの……? 他の、澄也先輩とセックスしたヤツらも…リンチ受けてるわけ…?」
耳元で鎌野が嗤い、翼の耳朶を舐めた。
「バカ言うな。他の澄也様のお相手は、全員ハイクラス種だ」
あっそう…。
やっぱりね。
(そこが気に入らないわけね…。こいつら全員、地獄に落ちやがれ……)
翼は眼を閉じた。体を撫で回す鎌野の手。気持ち悪くて、吐き気がした。
(澄也先輩のは…気持ちいいのにな…、あれ、あの毒のせいかな…)
頭痛と、背の痛みに集中する。今、鎌野という男に組み敷かれていると思うと、とたんに吐いてしまいそうだった。
(これ、先輩だと思おうかな。澄也先輩にされてるって……あー俺)
何で先輩にされるのは、そんなに嫌じゃなかったんだろう。
(わかんね……も、どうでもいいか……)
何もかも投げ出したとたん、すうっと力がぬけていき、意識が薄れていくのを感じた。