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王宮の南に位置する小高い丘。
そこで、ロキは馬から降り伸びをした。
心地良い風と、土草の匂いが鼻腔をくすぐる。
アルファズルが、暗黒界一の帝国になってから、随分と経った。
ロキは、青く晴れた空を眺めながら、頭上高く一つに纏めた長い黒髪に片手で触れた。
サラサラと手を零れるこの感触は、彼の兄であり唯一の肉親であるアルダフェズルが愛した感触だ。
ロキは、美しく成長した。
魔力が無いのは相変わらずなものの、彼の容姿は人目を一瞬で奪うほどの美しさだった。
濡れたような漆黒の髪に、不思議な色合いをした灰色の瞳。そして、艶やかな赤い唇で語られる音は、心地の良い穏やかなものだった。
何人もの有力魔族が、ロキを妻に…と欲しがった。
その美しさに目を奪われた者達は、しつこいほどに求婚を申しこむ。
暗黒界において、同姓は禁忌などというルールは無い。
より強い魔力を得る為、近親間での婚姻も良く行われていた。
彼らにとって奇形児というものは存在しない。奇形というのは、彼らにとって『生』の一つでしかないのだ。
魔族には性に捕われていない者も多い。
そして、魔族の中でもある一定レベルの者は、特殊な能力が使用できた。
男性器しか持たない男に対しても、妊娠させる事が可能にする。
これは、躰の構造の組換えを行う高等な技だ。
それ故、地位ある公爵ですら男であるロキを妻に欲しがっているのである。
跡取りの問題など、貴族ともなれぱ解決できよう。
しかし、誰一人としてロキとそのような思案を持って会えた者はいない。
何故なら、彼の兄の存在があったからだ。
アルダフェズル・ハーヴィ・アルファズル。
アルファズルの建国者にして、偉大なる王。
彼の操るファルシオン・”漆黒の脅威”は幻とまでいわれた魔剣だった。
今現在、表立って彼を怒らせるものなどこの暗黒界には存在しないだろう。
「ロキッ!」
声に振り向くと、そこには漆黒の馬を走らせる兄の姿があった。
ロキは思わず微笑んで、その馬に駆け寄る。
一際高く鳴いた兄の愛馬は、その位置に止まると兄は身軽な動きでその背から飛び降りた。
「一人で出歩くなといつも言っているだろう?…何かあったらどうするのだ」
ロキには、下等魔族程度の魔力しかない。
アルファズル及びアルダフェズルに敵対するものからすれば、ロキほど格好の獲物はいないのだ。
アルダフェズルの溺愛する弟。
美しい、アルファズルの珠玉。
「…でも、いい天気だったからさ」
兄が心配する理由を最もわかっているロキは、少し悲しそうに笑いながらも両手を広げた。
「どうしても、外に出たい気分になっちゃたんだ…」
それでも、兄の眉間の皺はなくなりはしなかった。
ロキは、しゅんとして項垂れる。
「…ごめんなさい、兄様。…もう、勝手な行動はしないよ」
「…それは一体、何度目の台詞だ?ロキ」
その低い声に、ロキは益々項垂れた。
「……何もずっと城に閉じ篭っていろと言っているわけじゃない。外に出る時は、必ず俺も一緒だ」
ハッと顔を上げると、苦笑する兄とぶつかった。
「…兄様?」
「今度からちゃんと俺を誘うんだ。良いな?」
そう言って頭を撫でてくれたアルダフェズルに、ロキは夢中で抱きついた。
ロキが美しく成長したように、アルダフェズルもまた美しく成長した。
この場合、ロキの美しさとは反対のものだった。
触れたら切れそうなナイフを連想させる強い血色の瞳。
肩にかかる程度の漆黒の髪は、艶やかに光を反射している。
逞しく育ったアルダフェズルには、各国の王族からの縁談が日々舞いこんできた。
けれど、彼の眼中には今だ愛しい弟しかなく、彼自身はもっと先の事だと思っていた。
「…結婚?」
ロキは、ぽつりと呟いた。
「ああ。一ヶ月に執り行う事が決まった」
重々しく口を開いたアルダフェズルから聞いた事実に、ロキは唇を噛んだ。
「…ロキ?」
「……結婚してしまっても、俺の事…ちゃんと構ってくれる?」
アルダフェズルは、愛しい弟の頬にキスを振らせる。
「当たり前だろう」
「……そう。良かった…」
かつて、小国の王子に生まれながら…。
アルファズルの皇帝の実弟でありながら…。
聖母の象徴の印を持ち、大した魔力もないロキは…そんなに慕われてはいなかった。
陰口など、聞こえるように喋るのが当たり前。
苛めなど、ロキの地位や皇帝に愛されていることに対しての嫉妬から、毎日の事で慣れてしまったほどだ。
けれど、誰もがアルダフェズルを恐れ敬っている為、ロキの躰に傷がつく事は無い。
発覚してしまえば、自分がどうなるかわからないから…。だから、ロキは精神的な苛めを強く受けた。
そして、それを告げ口しないロキの性格が相手を増長させていた。
一人になりたくない…
自分を唯一構ってくれる兄を、見も知らない女に取られる嫉妬と苛立ちをロキは悲しげな笑顔の裏に隠した。
溜息をついたアルダフェズルは、纏っていた真紅のマントをソファの上に投げ捨てた。
なんて茶番だ……。
アルダフェズルは、心中だけで呟く。
妻に娶った女は、ある一族の長の娘だった。
その一族は、魔界の天空神を奉る神官の一族。
その一族と婚姻を結んだ理由は、その一族さえ手に入れれば軍事のみならず神事面においてもアルファズルが強固になるから…。それだけだった。
それだけの理由だったから、婚姻の儀式はとてつもなく下らないものに思えた。
「…ロキ…」
弟は笑って、祝福してくれた。
そんなもの…いらなかったのに。
もし、彼が泣いて結婚を拒めばアルダフェズルはまだロキだけのものであっただろう。
けれど、それをロキに無言で求める方が間抜けな話だ。
あの、魔族とは思えないほどに優しい心を持った子が、我侭を言うわけがなかった。
いつの頃からだろうか…。
あの子が、ただの弟でなくなってしまったのは…。
組み敷いて、鳴かせてやりたいと思うようになったのは…。
ロキを見るたびにそんな事を思ってしまう…。だからアルダフェズルは、婚姻を早めた。
たとえ…。
魔界で兄弟間の恋愛が認められていると言っても…。
(ロキにとって、俺は兄でしかない…)
充分にわかりきっている事だった。
魔族にとって、最も怖い感情は、『愛情』だという。
元々、愛情とは程遠い存在であるが故の矛盾。
「陛下」
二度、扉がノックされアルダフェズルは振り返った。
「ご準備、整ってございます」
「…わかった」
これから、花嫁の寝室へ行く。
そこで、彼女を抱く。
それだけだ。
寝室を別にした理由は、ただ一つ。ロキと眠っていたベッドに、他の者を上げたくなかったから…。
部屋なら吐いて捨てるほどある。
丁度良いと、アルダフェズルはひっそりと笑った。
妻・スヴァリは、皇后に相応しい美しい容姿と気品、知性を持つ女だった。
難点を挙げるのであれば、彼女の気性が激しくヒステリーを起こしやすいというところだ。
彼女は嫁いできて、まず始めに夫との寝室が別と言う事を訝しんだ。
その事についての解答は、彼は激務をこなす上軍を率いる身なのでいつ緊急事が起こるか分からない。夜中に起こしてはかわいそうだという事を彼の側近から得た。納得がいかないものの、それは彼の優しさなのだとスヴァリは渋々了承した。
そして次に、彼女は夫の溺愛する彼の弟に嫉妬の目を向けた。
彼は、何事に関しても弟を第一に考える。スヴァリなど一体何番目なのか…。
「わたくしは、あの方の正室なのですよ?」
スヴァリは、幼い頃より我侭を言っている年老いた乳母に零した。
「何故、あの何の力もないロキだけが一番に大切にされるのですか」
差し出した長い爪に、侍女がマネキュアを施していく。
赤い…毒々しい赤い色。
「ご兄弟様は、お国を滅ぼされ御両親、親族を一度に失いました。それ故、陛下にとってロキ様は唯一の肉親。それに、生まれたばかりのロキ様を、陛下は慈しみ育てたといわれております」
生まれた直後に親を失ったロキを育てたのは、兄であるアルダフェズルだとスヴァリも聞き及んでいた。
けれど、そんな事では彼女のプライドが容認する訳もない。
「大丈夫です、スヴァリ様。ロキ様もお年頃。そろそろ良い縁談を選ばれることでしょう。それに、男という者は御子ができれば変わるものでございますよ」
そう、穏やかに微笑む乳母に、スヴァリは爪に息を吹きかけながら呟いた。
「…そうかしら?」
「そうでございますよ、スヴァリ様」
けれど、スヴァリには何やら正体不明の不安のような善くない不可思議な感情が付き纏っていた。
+++++
ロキは王宮の広大な庭の一角にいた。
この王宮は、アルダフェズルがロキの事を第一に考えて造らせ整備させたものだ。
庭の草花も壁紙の色一つ取っても、全てアルダフェズルがロキの好きな色好きな柄を考慮して取り入れたもの。
「ふぅ…」
石製のベンチに腰掛けて、ロキはため息を零した。
兄は、妻を娶っても変わる事は無くロキを大事にしてくれる。
確かに、自分はそれを望んだ。
望んだのだが、何処か違う。
妻をないがしろにまでして、自分を優先に考えて欲しいなどと…思えなかった。
ロキはアルダフェズルが妻を愛しているから娶ったものだと思っている。政略結婚など、あの兄がする筈が無い。浮いた噂一つ流さずにいたあの兄が…。
それは、ただロキが知らなかっただけだ。
ロキが知るアルダフェズルと万人が知る皇帝アルダフェズルはまったくの違った顔を持った。
浮いた話など、何度も何度も上がっていたのだが、ロキに流せばアルダフェズルに流れるから…。そして、アルダフェズルがロキにそんな事をいうようなものを許す筈が無かったから…。
実際、何人ものロキに手を出そうとしていたヤツ等をアルダフェズルは処刑した。
知らないのは、その中心にいるロキだけである。
「はぁ…」
広い世界に憧れる。
この王宮の外に出たい。
もっと色々なものを見聞きしたい。
けれど、自分は兄の加護を離れれば生きていけない事は明白だった。
非力なくせに顔だけは良い。だから、狙われやすい。
「何をそんなに溜息をついているんだ?」
ハッとして振り向くと、そこには騎士が一人立っていた。
腕の腕章から誰が見てもこの男が上位の者である事はわかった。
けれど、ロキはそれで判断せずとも騎士の正体を知っていた。
「レグルス…」
レグルス・フィン…騎士団隊長にして兄アルダフェズルの親友である男だった。
レグルスの出身は、何処とも知れない小国だという。
旅先で知り合ったアルダフェズルと息投合し、その腕を認められてここまで来た。今は公爵の位を与えられている。
レグルスは、現在騎士・帝国軍内においては、第二位の権力を持っている男だ。一番の権力者は、軍総将軍を務めるアルダフェズルだった。
「我が親友殿の華は、相変わらず憂いた顔をしているな」
レグルスは、ゆっくりとロキの前まで回りこんだ。
この兄の親友は、肉親がいないらしいせいか自分を良く構ってくれる。多分、アルダフェズルに続いてロキに近い者だろう。
「久しぶりだよね、レグルス」
「ああ。ちょっと、出張で南の国境まで行っていたんだ」
それで姿が見えなかったのか…ロキは、兄の婚姻直後に姿を見なくなった男を見上げた。
亜麻色の髪に緑の瞳。
様々な縁談が舞い込むこの男は、『結婚など墓場で妻は墓石だっ!』と盛大に叫んだ事で有名だった。
それ故、国を強固にする為早々に結婚してしまった親友を心中哀れんでいたりもする。
けれど、それは決して『結婚したから』ではなく、意にそぐわぬ結婚を進んでやった愚かさ加減を哀れんでいるのだ。
「どうしたんだ、こんな所で一体…。もしや、アルが構ってくれないから拗ねているとか?」
それは一番無い事だろうと思いつつも、レグルスは口にした。それは、彼自身の望みでもあったからだ。
「…違うよ。兄様は相変わらず優しい…」
けれど、その微かな望みはやはりかなわなかった様で…。
(あの、アルファズルの帝王を称して『優しい』なんて使うのは、暗黒界広しと言えどこの子だけだろう…)
そう思うと、苦笑を禁じえない。
そんなこと露知らないロキは、レグルスの苦笑に首を傾げた。
「では、何をそんなに憂いているんだ?ロキ」
ロキは、一瞬躊躇ったのの、真っ直ぐにレグルスを見上げた。
「…兄様が、優しいんだ」
「?」
「どうしてなのかなぁ?妻を許したというのに、まだ俺の事を一番に考えるんだ。…それは嬉しいけど…」
ロキが、瞼を臥せた。
長い睫が震え、頬にできた影が揺れる。
「…戸惑うんだ。優しくされすぎて…怖いんだ。だって…俺は兄様が居ないと生きていけないのに、それでも兄様はまだ俺の事大事にする。まるで…俺が兄様の花嫁みたいだ…」
なんてね…
最後は嘘だよ、そうロキは苦笑した。
「あながち間違いではないな、ロキ。傍から見てりゃ、スヴァリ殿よりもお前のほうがアルの伴侶みたいな扱いだ」
レグルスにまでそう言われてしまっては、ロキの例えもあながち間違いではないということか…。
「でも…」
「ロキっ!!」
ロキが言葉を噤むうとした時、聞きなれた声が大声でロキを呼んだ。
弾かれた様に王宮の建物の方を向くと、3階のバルコニーからアルダフェズルが身を乗り出していた。
「兄様…」
顔ははっきりと見えないが、何やら不機嫌らしい。
ばっと、手すりを飛び越えたかと思うと、アルダフェズルは空中に飛び出しそのまま翼を広げた。漆黒の翼が、日の光を受け艶やかに輝いている。
ばさばさと羽音を立てて、その美しい悪魔は地上に舞い降りた。
「こんな所で何をしているっ!」
びくんっと、ロキの肩が跳ねた。
「あ…あの…」
「ただ日に当っていただけで、何をそんなに苛ついているんだ、アル」
レグルスが助け舟を出す。
「ロキにだって息抜きは必要だろう?この子は元々、大勢の配下の中にずっと座っているなんて苦手なタイプだ。それぐらい、兄であるお前が良く知っているだろう」
「チッ!」
親友であるレグルスにたしなめられ、アルダフェズは舌打を一つすると真っ直ぐにロキに向き直った。
レグルスが言うのは尤もなのだ。
彼もまた、ロキを幼少の頃より可愛がり慈しみ育てた者の一人である。
現実において、ロキを慈しんでいる者などアルダフェズルとレグルス、彼らと旅先で知り合い息投合した数人の若者達、そして古参の家臣の数人ほどしか存在しない。
「ロキ、俺の傍を離れるなと言っただろう」
「え?…でも…」
「おいおい、皇帝陛下。いくらロキが弟だからって、四時六中お前の傍に侍る事はできんだろう」
レグルスが言うのに、アルダフェズルは彼をキッと睨んだ。
「何も、ずっと一緒にいろと言っているわけではない。私の目の届く範囲にいれば良い」
「おい、アル。ロキはお前のお袋じゃないんだぞ?それを、まるで母親がいなくなった三歳児みたいに…」
二人が言い争うのに、ロキは思わず立ち上がった。
「良いよ、レグルス。俺が兄様に心配ばかりかけてるのがいけないんだよ。兄様、ちゃんと兄様の目の届く範囲にいるから…ね?」
ロキは、微笑んで兄を促した。
「レグルス様っ!レグルス騎士長っ!」
レグルスの部下が駆け込んで来る。
そして、膝を着くとまずはアルダフェズルに頭を下げた。
「どうした?」
「はっ!実は……」
部下の話した内容は、ロキにとって意味がわからないものだったが、どうやら騎士団の中に何か不正があったらしい。
レグルスは、アルダフェズルにそういう事だと言って、部下を引き連れて去って行ってしまった。
暫く、レグルスを見送っていたロキだっだか、隣でどさっという音が聞こえて振り返った。
今さっきまでロキが座っていた石のベンチに、アルダフェズルが深く沈んでいる。
「兄様?疲れたの?」
自分も隣に座りながら、ロキは問いかけた。
「…ああ…少し。大きすぎるというのも困りものだな…」
アルダフェズルは、溜息を吐いて苦笑した。
「……すまない」
「え?」
「…先ほどの事だ。お前を束縛するようで…すまない」
それに、ロキが慌てて頭を振った。
「そんな事ないよ、兄様っ!だって…俺、兄様いないと何もできないし…ヘタしたら、一週間ぽっちもこの暗黒界では生きていけないよ…。兄様、俺、兄様の弟で本当にうれしいんだよ」
ロキは、まるで花のような微笑を、兄に向ける。
「だから兄様、俺の事もっと構ってね。…俺には、兄様しかいないから…」
「…ロキ…」
ふわっと、ロキはアルダフェズルに抱きついた。
ロキ髪からは微かな太陽の匂いと、庭園の花の香りがする。
「…兄様、大好き」
「……あぁ」
ロキが抱きついて見えないアルダフェズルの顔は、苦痛に眉を寄せていた。
今すぐここで押し倒して、その肢体を開いてしまいたい…!
貪り尽くして、他の誰も見ないように交われないように愛せない様に…!
魔族ではない何かに愛されたとしか思えないほどの『美しさ』を持ってしまったこの弟を!
「…兄様…?お疲れだったら、お部屋でお休みになられては?」
黙りこんだまま疲れた表情の兄を、ロキは心配そうに眉を寄せ労わる。
「いや…言い。暫く、お前の膝を貸してくれれば…」
そして、ロキの膝に頭を預けた。
偉大なる暗黒世界の創造主よ…。
願わくば…
我が弟が、他の誰も愛さないように……
他の誰にも愛されないように……
アルダフェズルは、願った。
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